【要約と感想】スピノザ『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』

【要約】スピノザの初期の思想を垣間見ることができる論文ですが、生前に出版されることなく、全貌が明らかになったのも19世紀以降です。
 神の存在や実体と属性、様態と変状、コナトゥス、必然性、能産的自然・所産的自然、人間の情念の分析、認識の類型、人間の自由などに関する考え方にはすでに『エチカ』と同じものが見られ、しばしば主著『エチカ』のプロトタイプともみなされます。
 一方、神の存在と定義の順序、悪魔への言及、神とシンクロする際の神秘的表現など、要所要所で『エチカ』と異なっているところもあります。

【感想】いきなり神の存在証明から始まるが、本書の最終的な目的はタイトルにあるように「人間の幸福」の条件と方法を明らかにすることで、その意図は『エチカ』まで一貫している。そういう執筆意図を踏まえると、個人的な印象では、スピノザの思想は何か新しいものを示しているというよりは、デカルト、あるいは中世スコラ学よりも古代哲学の原点に還っているように見える。というのは、古代ギリシア哲学やヘレニズム哲学は徹底して「人間の幸福」の条件と方法を考察したが、その哲学の伝統はキリスト教によって断ち切られる。キリスト教にあっては、人間に浄福をもたらすのは人間自身の認識や努力ではなく、神の恩恵である。ルネサンス・人文学によって古代哲学が復興した際も、確かに世界の真理や道徳性についての関心は盛り上がったものの、「人間の幸福」という古代哲学のテーマが前面に打ち出されたような印象はない。「幸福」というテーマでは、ルネサンス期はキリスト教の圏内にあるように思える。潮目が変わるのはモンテーニュやデカルトがあっけらかんと「快楽」の肯定に回るあたりだろうが、彼らには「人間の幸福」に対する原理的な洞察は欠けている。ということで、スピノザが真正面から「人間の幸福」の在り様と方法に取り組んで、見かけ上古代哲学の原点に立ち返っているのは、実はスピノザ思想の内容以上に、完全にキリスト教の軛から抜け出したことを意味するのかもしれない。同時代から無神論者のチャンピオンとして恐れられるわけだ。
 確認すると、スピノザによれば、人間の幸福は神(という名の全自然)とシンクロする認識に達することである。「信仰」ではなく「認識」によって「幸福」に達すると主張したので、カトリック大激怒だ。そしてその結論自体は『エチカ』と変わらないのだけど、表現は本書の方が極めて神秘的で印象的だ。そしてそれはヘレニズム期ストア派の宇宙論を髣髴とさせる。確認すると、ストア派は人間に小宇宙を見出し、宇宙=自然とシクロすることで心の平安(アパテイア)を得ることを目指した。スピノザの言う「神=自然」とストア派の言う「宇宙」は、もちろん実体に対する理解などあらゆる面で違っているが、その自然論・宇宙論が「人間の幸福」の在り様と内在的に関わっているという点で、個人的には本質的に似ているような印象を持つ。(と思ってciniiを検索したら、スピノザとストア派を比較する論文がいくつかあった。私が思いつく程度のことは、だいたいとっくに他の人も気がついている)。

【個人的な研究のための備忘録】完全性
 本書(というか西洋哲学全般)には「完全性」という言葉が繰り返し登場し、重要な役割を担って使用されている。ただしスピノザの「完全性」は、他の哲学者の使う「完全性」とは微妙に意味や役割が違っているようだ。

「我々が我々の知性の中に完全な人間の観念を形成する場合、それは(我々が我々自身を観察する時)さうした完全性へ到達する為の何らかの手段を我々が有するかどうかを顧るよすがとなり得るであらう。そしてこの際我々をさうした完全性へ促進する一切を我々は善と名づけ、反対にこれを阻害するもの、或はさうした完全性へ我々を促進しないものを悪と名づけるのである。
 故に私が人間の善悪に関して何ごとかを述べようとすれば、私は或る完全な人間の観念を形成せねばならぬと私は言ふのである。」125頁

 ここは「完全性」と「善・悪」の関りから見て、『エチカ』の記述との整合性が気になるところだ。というのは、『エチカ』でスピノザはあらゆる個体はある種の「完全性」を有していると言っている。ただし「大きな完全性」か「小さな完全性」かの違いはある(そして「善」とは完全性をより大きくするものであり、「悪」とは完全性をより小さくするものだ)。その際に、スピノザは通俗的な「完全性」の概念は勘違いで生じたに過ぎないと批判する。引用箇所にある「完全な人間の観念」とは、そのような勘違いに過ぎないはずだ。本書の記述は、『エチカ』に示された「完全性」と、中身や用法がそうとう違っているように思える。

【個人的な研究のための備忘録】二度生まれ
 ルソー『エミール』で重要な役割を果たす「二度生まれ」という表現に、思いがけずここで出くわした。

「思ふに、我々の第一の誕生は、我々が身体と合一してそれに依つて動物精気の活動と運動が成立した時であった。しかし、我々のこの新しい、或いは第二の、誕生は、我々がこの非物体的客観の認識に相応する全く異なれる愛の諸結果を我々のうちに知覚する時に起るであらう。この諸結果と最初のそれとは、恰も非物体的なものと物体的なものが異なり、霊と肉とが異なるだけ異つてゐる。そしてこの愛と合一とから初めて永遠不変なる恒常性が生ずるのであるから、それは益々多くの権利と真理とを以つて更生と呼ばれ得るのである。」193頁

 本書はスピノザ生前には出版されず、ルソーが目にしていた可能性は限りなく低い。よって、ルソーがこの表現から「二度生まれ」という霊感を得たわけではない。ということは、実は17世紀時点で「第二の誕生」というような言い回しが一般的にあったということを想定していいのかもしれない。
 そして上記引用箇所は、個人的には、本書と『エチカ』の決定的な相違点を示しているのではないかと思う。引用箇所でスピノザは、精神と肉体が合一するのが「第一の誕生」で、精神が神と合一するのが「第二の誕生」としており、それこそが真の「人間の幸福」の形だと言っている。そのエッセンス自体はもちろん『エチカ』と同じなのだが、筆の運びがまったく違う。本書には「霊」だとか「愛」だとか「永遠不変なる恒常性」だとか「更生」だとか、『エチカ』には見当たらない神秘主義的な言葉が連発される。ここで言及される神秘的な「愛」は、『エチカ』の第3部で分析される功利的な「愛」とはまったく違うものだ。この「神との合一」は、ストア派の言う「宇宙=自然との合一」を想起させると同時に、中世神秘主義のエックハルトやイエズス会創始者のイグナチウス・ロヨラをも連想させる。本当にスピノザが書いたのか?

スピノザ/畠中尚志訳『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』岩波文庫、1955年