【要約】スピノザの思想はしばしば難解と言われますが、人生や歴史的背景を踏まえ、最新の研究動向をふんだんに盛り込んで、すべての著書に目を配って全面的に解説します。
最初の本はデカルト哲学の解説本ですが、スピノザはデカルト哲学体系に不満を持っていて、特に方法論を全面的に修正します。デカルトとは異なる総合的方法を準備するために、次の著書『知性改善論』で能動的な実践に導く発生的定義に取り組みますが、不十分なまま未完に終わります。続いて『エチカ』のプロトタイプともみなされる『短論文』では「力」の観点にたどりついていますが、こちらも出版されません。
主著『エチカ』では、神を含めたすべてを「原因」からの発生的定義で幾何学的に記述し、「目的論」を完全に排除します。精神や延長は神の無限の属性の一つで、個物は神の様態です。「結果」とは個物が「力(コナトゥス)」を発揮した「表現」であり、その「変状」の過程に「自由意志」が介在する余地はありません。客観的な善悪などはなく、個物の「力」を増す組み合わせが善で、減らす組み合わせが悪です。だから「力」を表現する「欲望」の在り様こそが個物の本質ですが、それを「意識」して神の本質とシンクロさせたときが至福であり、自由です。
『神学・政治論』では旧約聖書の荒唐無稽なデタラメさを言語分析と自然学的な観点から逐一批判しつつ、宗教の現実的機能は否定しません。政治論的には「法=lex」と「自然権=jus」の違いを踏まえた社会契約論的な記述がありますが、自然権の放棄を主張しない(というかできない)ところがホッブズやルソーとの決定的な違いです。
【感想】該博な教養を背景として丁寧な読解に基づいた明快な構成と明晰な文章で、よく分かった気になる。とても勉強になった。読み込みすぎていて、「意識」の説明のあたりはスピノザの意図を超えているような印象が無きにしも非ずだが、優れた「原理」というものは有益な知識を次々と産み出す生産的なものだとデカルトも言っているので、この「意識」に関する議論は少なくともスピノザの原理から必然的に生成された知見ということで問題ないのだろう。
【個人的な研究のための備忘録】人格の完成
「完全性」に関する言及があった。
「スピノザはそれに対し、それ自体において見られた事物という観点を導入する。事物はそれ自体で見られる限り、完全でも不完全でもない。或る事物が不完全と言われるのは、「それらの物が、我々が完全と呼ぶ物と同じようには我々の精神を動かさないからであって、それらの物自身に本来属すべき何かが欠けているとか、自然があやまちを犯したというためではない」。したがって、或る意味で全てのものは完全である。」281-282頁
この「完全性」とか「完成」の議論からただちに想起するのは、教育基本法の第一条に「教育の目的は人格の完成」と規定されていることだ。目的論を排除し、完全性概念にまとわりつく偏見を批判するスピノザからすれば、二重に間違っている規定ということになるだろうか。制定過程を振り返ってみれば、この教育基本法第一条「人格の完成」の規定にこだわったのは、カトリック教徒でもあり、さらには法学者として「自然法」の普遍性を唱える時の文部大臣、田中耕太郎であった。あらゆる面でスピノザと相性が悪いのは当然なのだろう。
ともかく、スピノザの観点を踏まえて教育基本法第一条「人格の完成」というものを考え直してみると、まず何らかの模範(イデア)に向かって子どもの教育を行うべきだという話にならない(それは子ども固有のコナトゥスに反する強制になる)し、そもそも教育という生成的な営みを「目的」から組み立てるなという話になるだろう。あるいは、子どもには子どもとして「それ自体で見られる限り」の完全性が既にあるのだから、完成しているものの「完成」を目指すのはまったく意味が分からない。このスピノザの観点は、子どもの権利条約や子ども基本法によって子どもにも大人と同様の権利(jus)があることが改めて確認されたことと響き合う。そんなわけで、子どもを「人格が完成されていない者」と決めつけるカトリック的現行教育基本法はスピノザ的には何重にも間違っているし、子どもの権利条約にも噛み合わないので、スピノザ風に目的論ではなく生成的に書き直してみると、たとえば、「教育の役割は、各個人のコナトゥスを活性化し、それぞれの完全性を増すこと」とでもなるか。
【個人的な研究のための備忘録】自然権と社会契約論
『神学・政治論』に現れる社会契約論について、かなり突っ込んで議論を展開している。
「だとすると、以上のスピノザの思想は、ロックが説いたような、意識をその根拠とするいわゆる近代的個人を前提としない仕方で世俗的な国家や政治社会を捉える可能性と必要性を示していることになる。」296頁
教育学的には、なかなか示唆するところが多い指摘だ。というのは、著者は議論を世俗的な国家や政治社会に限っているが、教育学者の私はここの記述から、「学校」や「教室」という、ある意味では一つの社会と呼べる空間をすぐさま想起する。で、子どもというものは「未だに近代的個人」となっていない存在であって、ロックやルソーのように「近代的個人を前提」とする仕方では社会(学校や教室)を構成できないわけだが、スピノザのように「近代的個人を前提としない仕方」であれば子どもを構成員とする社会における「権利」というものを捉えられる理論的可能性が生じるからだ。
そもそも、どうして赤の他人である教師が赤の他人である子どもに対して言うことを強制的に聞かせる「権力」が生じるのか、その権力の源泉はどこにあるのか、という議論が教育法学で連綿と続けられており、戦前であれば「特別権力関係理論」、戦後であれば「国民の教育権論」が唱えられてきた。国民の教育権論の構造は、大雑把には、親の持つ教育権が「信託」されることによって教師に権力が生じると説く。ポイントは子どもにはもっぱら「学習権」が認められるべきで、それは放棄も譲渡もできない天賦の権利だとされていることだ。つまり、国民の教育権論の構造では、子ども自身が権利を放棄したり譲渡したり信託したりする社会契約論にはなりようもない。ところがスピノザのように「近代的個人を前提」としないかたちで社会の成り立ちを捉えると、ひょっとしたら子ども自身の「自然権をそのまま」にする形で学校や教室という社会を成立させる理屈が立つのかもしれない。
【個人的な研究のための備忘録】有機体論
有機体論について、気にかかる記述があった。
「『国家論』は多数者というアクターに注目した。だが、そのアクターを精神の概念と結びつける時、言い換えれば、指導層がまるで国家の精神のように存在していて、それによって動かされる国家の身体が多数者であるかのような話になる時には、必ずこの特殊な言い回しが現れているのである。」389頁
「つまり、『国家論』では、国家が精神と身体の隠喩で国家が語られるときには、その隠喩性を強調する表現がしつこく繰り返されている。」390頁
「したがってスピノザの国家理論はどちらかと言えば、有機体論的図式に近い。確かに、国家は統治権に基づいて導かれねばならない――あたかも一つの精神によって導かれるかのように。この言い回しを多用する『国家論』は、確かに、国家を一つの生き物のように分析している。」392頁
「この言葉のラディカルな含意を次のように定式化できるであろう。人間を国家のように考えることはできないし、国家を人間のように考えることもできない。」393頁
私も昔から「有機体論」の表現に注意を払ってきたつもりで、スピノザ『国家論』に連発される有機体論的表現にも着目せざるを得ない。そういう関心から言うと、本書の行論には疑問なしとしない。第2章第6節の「国家の中における国家のように」という表現は、有機体論とは関係ない文脈で突如として挿入されている。確かに「人間を国家のように考えることはできない」と言っているが、「国家を人間のように考えることもできない」とはどこにも書いていない。しかもスピノザは、「精神」を持つのは人間に限らないと主張した哲学者である。国家が「精神」を持っているとさらっと書いていても、何の違和感もない。本書は、少々読み込みすぎているような印象がある。