【要約】哲学とは、人間が知りえるすべての完全な知識を扱い、最初の原因からあらゆることを導き出す原理を解き明かすものです。私が示す原理は、極めて明白で、あらゆる他の事物を導き出すので、完璧です。
初めに、まず怪しいものは全て疑います(でも普段の生活は普通にね)。すると、我疑う故に我あり。だから思惟と物体は異なります。よって神あり。おかげで我々が明晰判明に下す判断には間違いがありません。そんなわけで物体は存在し、運動法則に従います。
この原理を理解できるようになるために、第一に道徳的な生活を確立し、続いて数学の練習を通じて理性を正しく導く論理学を習得し、続いて根として形而上学、幹として自然学の原理と全宇宙の構成の在り方、さらに枝として他の諸学(空気、水、火、鉱物、植物、動物、人間、医学、道徳、機械学)を学びましょう。この原理を土台として正しく理性を働かせると、どんどん世界の真理が見いだされ、生活が発展し、人間は幸福になるでしょう。
続いて第二部では人間の身体を含めた物体と、その運動の原理について解説します。物体の本性は三次元の「延長」で、他の性質は属性です。真空はありません。(第三部と第四部は略)
【感想】本編第一部には例の「我惟ウ故ニ我アリ」のコギトテーゼが極めて整然と体系的に述べられている。本格的な概説書では細かいところも押さえていて誤解は生じにくいように思うが、一般的な哲学の教科書だと雑に扱われていて、デカルトの本意が伝わりにくいかもしれない。「切り抜き」ではなく、しっかりデカルト本人のテクストに当たって確認しておきたいところだ。丁寧に読むと、いくつかの疑念は解消できるようにちゃんと書いてある。
ただ、個人的な印象では、本書の見どころは序文にあたる「仏訳者への著者の書簡」にある。というのは、デカルトの哲学観・哲学史観・知識観・教育観・進歩史観が有機的に示されているからだ。
まず哲学観に関して、哲学があらゆる知識の原理的な土台となるべきことがしつこく繰り返されるわけだが、それは哲学が人間の「進歩」のための原理として役割を果たすべきだからだ。この素朴な「進歩」への信仰があって、初めて哲学の果たすべき役割が明確になる(だから逆にこの「進歩」への信仰が崩れたところからデカルトの失墜が始まる)。
哲学史観に関しては、プラトンとアリストテレスに直接言及しているところが注目だ。個人的にはプラトンの評価にやや「?」となるが、それはデカルト個人の理解の問題というより、当時の書誌的水準の問題と考えた方がいいのだろう。(気になるのは、明らかにプラトンを引き継いでいるアウグスティヌスの主著『神の国』は「我疑う故に我あり」というアイデアを示しているのに、それをデカルトが完全に無視しているところだ。意図的にスルーしているのか、単に不勉強なのか、それとも深い理由があるのか)。ともかくデカルトは、プラトンを「疑い」の元祖、アリストテレスを「確実性」に元祖と見なした上で(しかもエピクロスがそれを引き継ぐと主張する!)、両者とも誤っていると切り捨てる。現在の哲学史的な水準からすれば無茶苦茶だが、デカルト本人が何を目指しているかはよく分かる話になっている。
教育観については、まず、すべての人間に共通する教育可能性を前提としているところが注目だ。デカルトは他の著書で「特に頭がいいわけではない」などと韜晦しているが、本書でも、自分が到達した「真実」はあらゆる人間が共通して理解できると断言する。そしてご丁寧にも、「三回読んだら必ず分かる」と読書指南までしている。どれだけ自信があるんだ。さらにデカルトは学問を身につける際のカリキュラムのようなものも提示する。そのいちばん土台にあるのが「正しい生活習慣」という意味での「道徳」というところは特に注目だ。そして確かに、他の本でも、ストア的な「正しい生活習慣」の重要性はしっかり指摘されている。一般的な哲学教科書ではスルーされがちなところだが、実は後の教育学の展開を考える上でもしっかり押さえておきたい。「正しい生活習慣」の身についていない人間が「我惟ウ」をやったら必ずおかしなことになるのである。
ところで第二部の物体論は、現代的な知識から見れば、衝突に関する説明が間違いだらけだ。ちょっと確かめればわかりそうな間違いが堂々と書いてあって、何やってるんだろうと思う。この間違いは、解説にもあったが、デカルトが「質量」というものをまったく度外視して、物事をすべて幾何学的なメカニズムで説明しようとしたことに由来するのだろう。本書には化学の観点も、熱力学の考え方も皆無だ。「有機物」に対する無関心も付け加えておくか。まあそれはデカルトの個人的な資質の問題ではなく、時代の制約だったと考えるべきところなのだろう。
【個人的な研究のための備忘録】アリストテレスをディスる
ガリレオ・ガリレイはアリストテレス学説に反したかどで異端審問を受けたわけだが、デカルトがその事件に大きな衝撃を受けて自著の出版を見送った事実はよく知られている。だがそれからしばらく時間が経ち(本書出版はガリレオ裁判から11年後)、ほとぼりが冷めたということかどうか、本書ではアリストテレスへのディスが止まらない。
デカルトの言う「ここ幾世紀」とは具体的にはトマス・アクィナス以降の約400年を指しているのだろう。そしてこの引用箇所でデカルトは、アリストテレス本人の学説が間違っているというより、その追随者が無能であったと主張している。しかし実は別のところでは、「アリストテレスの原理の誤りは、これに従ってきた幾世紀いらい、この手段では、何の進歩もなし得なかった」(34頁)と言っている。そしてその指摘はブーメランとしてデカルト自身に突き刺さってしまったのであった。
【個人的な研究のための備忘録】子ども観
理性を重んじるデカルトは、必然的に子どもを歯牙にもかけない。
「しかも精神は幼年期には、身体に融合していたので、多くのものを明晰にではあっても判明には知覚しなかった。にも拘らず、当時も多くのことについて判断を下していたので、ここから多くの偏見が生じ、大多数の人においては、後に至っても取り除かれていないのである。」81頁
「即ち、幼年期には我々の精神は、身体と密に結合していたので、身体を刺激するものを感覚する思惟(心的現象)だけを受け入れ、他の思惟を受ける余地がなかった。」105頁
ということで、発達論的な視点が微塵もなかったことをしっかり確認しておきたい。