【要約と感想】苫野一徳『愛』

【要約】現象学の本質直観によって「愛」というものの確信の根拠を探ります。世間で愛と呼ばれるものの中には、単に自己ロマンを投影しただけの偽物があります。丁寧に愛の様々な隣接概念(執着と愛着、友情と友愛、エロティシズムと性愛、恋と恋愛)の本質を言語化する努力を重ねていくと、我々が「愛」を直観するときには必ず「存在意味の合一」と「分離的尊重」の弁証法的関係にあることが観取できます。「存在意味の合一」と「分離的尊重」の欠けているものは、愛とは似ているが非なるものです。つまり「ほんものの愛」が理念的にあり得ることは間違いないので、それを実際に実現できるかどうかは愛を育てようとする「意志」に係ってきます。みんなで幸せになろうよ。

【感想】読後感が爽やかな、良い本でした。
 個人的に「愛」には一家言あって、というのはこの20年来、大学で行う教育学(教職課程でも一般教養でも)の講義の中で「人格」という概念を扱う際、「好きと愛」の違いを通じて本質に迫るという説明をしてきたからだ。ただの感情である「好き」と対象の存在そのものの在り様に関わる「愛」との違いを突き詰めていくと、最終的に「愛の対象」としての「人格」というものが理念的に要請される、という仕組みだ。この私の説明の仕方は、著者の現象学的証明とは異なり、言わば存在論的証明とでも呼べるかもしれない。まあ、学問的アプローチの仕方はまったく異なるけれども、深いところで響き合っているような感じは確かにあるのであった。

 些末なことだが、学問的に気になるのはデカルト『情念論』やスピノザ『エチカ』に記述されている「愛」の扱い方だ。あるいはモンテーニュ『エセー』も加えてよいか。それらは明らかに「存在意味の合一」と「分離的尊重」を欠いている。それでもって彼らが「ほんものの愛」を理解していないと断罪できるのはいいとして、彼らが「ほんものの愛」を眼中に入れていないことを思想史的にどう理解するのか。理性を至上化した近代合理主義の限界として切り捨てるだけでよいのかどうか。

苫野一徳『愛』講談社現代新書、2019年