【要約】今や終わりなき日常の退屈の果てに自己イメージを消費するポストトゥルースと善のパッケージ化が横行し、フェイクニュースと陰謀論が跋扈する時代ですが、背景にあるのは相対主義と構築主義の横行による〈私〉の喪失です。〈私〉の外にある情報の洪水に踊らされて、私が本当に何を望んでいるか分からなくなっています。もう一度〈私〉を取り戻す哲学としてデカルトを再評価し、フッサール現象学を踏まえて、コミュニケーションの条件と可能性を探ります。
人間の認識には確かに主客一致が成立しませんが、しかし相対主義や構築主義に陥ると剝き出しの力だけしか信用できなくなります。〈私〉の確信を支える条件を反省し、他の〈私〉の確信を支える条件との対話を粘り強く続けることで、普遍的な妥当性は確保できます。大切なのは、〈私〉の確信を支える条件を反省する謙虚な姿勢、他の〈私〉とのコミュニケーションを成立させる言語化の努力と技術、迷いと弱さと脆さを抱えたまま決断をしない決断をする勇気ですが、なによりも〈私〉が〈私〉であるというどうしようもない事実を肯定することです。
【感想】過剰な自分語りに満ちている本だが、過剰な自分語りをしなければ説得力を持ちえないコミュニケーションの在り様を語っている以上、積極的に自分語りをするしかないのである。「何を言ったか」よりも「誰が言ったか」の方が圧倒的に重要な時代なのだ。しかしただ、その自分語りで表現される〈私〉が、「クリスタル」な固有名詞の氾濫に囲まれた空虚な〈私〉ではなく、「欲望」に基づく充溢した〈私〉でなければならない、ということではある。さて、そんなリアルに充実した〈私〉を語る言葉を誰もが持てるかどうかという点で、教育の出番ということになるだろうか。
ともかく、フッサール現象学に基づいて相対主義や構築主義を乗り越えていこうという姿勢は、教育学ではただちに苫野一徳を思い起こさせる。本書の著者が1987年生まれ、苫野先生が1980年生まれだが(決断主義を前面に打ち出した宇野常寛が1978年生まれか)、こういう「相対主義に一撃をくらわす」ような姿勢は世代的な特徴を持つのか、それとも時代の雰囲気か、あるいは普遍的な動向なのか。個人的には、悪くはない。
■岩内章太郎『〈私〉を取り戻す哲学』講談社現代新書、2023年