【要約と感想】モンテーニュ『エセー』

【要約】無理せず、自然体でまったりと生きていきましょう。どうせ私は私以外の何かになれないし、別の何かになろうと思ったら必ず不幸になります。金や名誉なんかは追い求めず、手の届く日常生活の幸せを噛みしめて、平凡に生きていきましょう。無学であったとしても、善良であるのが一番です。もちろん快楽を否定してもいいことはありません。たっぷり楽しみましょう。えへへ。

【感想】怪作といって言いのだろう。長く古典として読み継がれてきた理由が、実際に読んでみればよく分かる。飽きずに最後まで読めた。
 随所に見られる「自分語り」は同時代では類がないし、ところどころのコメントが妙に現代の状況にマッチしてドキリとさせられる。最初の方は人文主義的な教養を前面に押し出しているが、やはり本領を発揮して苦笑いを誘うユーモアが増えて来るあたりからがおもしろい。「近代的自我」の萌芽を見たくなる。

【個人的な研究のための備忘録】教育と自己同一
 本編の話題は多岐に渡って興味は尽きないのだが、私の個人的な仕事に関わる教育や子育てに関わる記述はかなり多いので、これを中心にサンプリングしておきたい。当時の状況を具体的に理解する上でも貴重な証言が多いように思う。また世紀の自己語りだけあって、「自己同一」に関わる洞察も興味深い。一緒にサンプリングしておきたい。

「われわれのもっとも大きな悪徳はもっとも若年の頃につくものであるから、もっとも大事な躾けは乳母の手中にあると私は思う。子供が雛の顎をひねったり犬や猫を傷つけたりして、はしゃぐのを見て喜ぶ母親たちがある。また、ある父親は愚かにも、自分の子供が無抵抗の百姓や召使を不当になぐるのを見て、男らしい魂の兆だと思ったり、あるいはその仲間を何かの意地悪い裏切やごまかしでだますのを見て、利発だと思ったりする。だが、これこそまさに残酷や、横暴や、裏切の種となり、根となるものである。」第1巻第23章

 幼少期の教育を重視する姿勢は、エラスムスなどルネサンス期の人文主義者に共通して見られる。第1巻の段階ではモンテーニュ独自の考えというより、人文主義者に共通する観点が示されているような印象だ。

「私は子供の頃、イタリア喜劇の中で、学校の教師がいつも道化役にされ、先生という名前がわれわれの間ではほとんど尊敬の意味をもたないことをしばしば残念に思った。(中略)いや、この習慣は昔からある。現に、プルタルコスも、ローマ人の間では、ギリシア人とか学校の先生とかいう語は非難と軽蔑を意味した、と言っている」第1巻第25章
「私はあの最初の理由を捨てる。そしてこの欠陥は彼らの学問に対する態度が間違っていることに由来するというほうがよいと思う。また、いまの教育法では生徒も教師も、より物識りにはなっても、より有能にならないのは不思議ではないというほうがよいと思う。本当に、われわれの父親たちの心遣いと出費は、われわれの頭に知識を詰め込むことだけを狙って、判断や徳操のことを少しも問題にしない。(中略)われわれがたずねるべきことは、誰がもっともよく知っているかであって、誰がもっとも多く知っているかではない。」第1巻第25章
「われわれは他人の知識で物識りにはなれるが、少なくとも賢くなるには、我々自身の知恵によるしかない。」第1巻第25章
「わが国の高等法院のあるものは、法官を採用するに当たって、知識だけを試験する。また、別の高等法院はそれ以外に、何かの訴訟の判決をさせてみて、良識の試験をする。私は後者の方法がずっとすぐれていると思う。」第1巻第25章

 詰め込み教育を批判して判断力や道徳性を養う教育を推奨する上に実技的入試方法を評価するところなど、現代の状況を想起せざるを得ない記述だ。このあたりから一般的な人文主義者と袂を分かっていく感じか。この姿勢は次の世紀のジョン・ロックで明確な表現を持つようになる。
 ただ、モンテーニュがキリスト教的な反知性主義の伝統を引き継いでいるだろうことも間違いない。トマス・ア・ケンピスとかイグナチオ・デ・ロヨラなどガチンコのキリスト教反知性主義の他にも、ルネサンスの元祖ペトラルカやエラスムスにも似たような姿勢を確認できる。モンテーニュが16世紀当時の状況を踏まえて実践的に考え付いたことなのか、あるいはペトラルカやエラスムスの範に従った修辞学に過ぎないのかの評価は、なかなか難しい。

「けれども実を言うと、私がここで申し上げたいのは、人間の学問のうちでもっとも困難で重大な問題は子供の養育と教育にある、ということにほかなりません。」第1巻第26章
「この世界こそは、われわれが自分を正しく知るために自分を写して見なければならぬ鏡であります。要するに私は、これが生徒であるお子様の教科書であるようにと望むのです。」第1巻第26章
「なおまた、この教育は優しさの中に厳しさをこめておこなわれるべきであります。普通、学校でおこなわれているようではいけません。学校では子供たちを学問へ誘うかわりに、実際には恐怖と残酷を与えるだけです。暴力と強制をやめてください。」第1巻第26章
「まず勉強の意欲と興味をそそることにまさるものはありません。さもないと書物をむやみに背負わされた驢馬が出来上がるだけです。」第1巻第26章

 モンテーニュは暴力一般に対する嫌悪感を前面に打ち出しおり、もちろん子どもに対する体罰も厳しく批判する。これもエラスムスなどルネサンス期人文主義の教育論に共通している。また意欲と興味を重視する観点も共有している。
 しかし教育課程に対する考え方については人文主義と大きく異なっているように思う。人文主義がギリシャ語やラテン語などの教養を最大限重要視するのに対し、モンテーニュは現実世界の在り様を重視する。その根拠については全編を通じても明らかにできないが、なんとなく自然科学の発展(コペルニクスへの言及はある)と新大陸発見(何か所かに言及がある)が関係しているような気はする。目の前で世界の在り方が大きく急激に変化している最中に、古典語よりも目の前の「世界」そのものを注視しようとする姿勢が説得力を持つはずではある。

「けれどもわれわれの習慣や意見が本性上、不定であることを考えると、私にはしばしば、すぐれた著者たちまでが人間について恒常不変な性格を打ち樹てようとやっきになるのは間違いであるように思われた。(中略)私にとっては、人間の恒常を信ずることほど難しいものはないし、人間の不定を信ずることほど易しいものはないように思われる。」第2巻第1章

 後に自分自身は恒常であると主張するモンテーニュだが、第二巻ではむしろ変化の方に傾いている。まあ、そもそもエセーは矛盾だらけの本だ。

「われわれは人を誉めるのに、子供の教育に熱心なことを取り上げはしない。いくら正しいことでも、当たり前のことだからである。」第2巻第7章

 どうやら16世紀には「子供の教育に熱心」なことは「当たり前のこと」だったようだ。重要な証言だ。

「たとえば、いま話している事柄についてもそうですが、生まれたばかりの子供を抱きしめる愛情というものが、私には理解できません。生まれたばかりの子供は、心の動きも体の形も見分けがつかず、どこにも可愛いと思わせるものをもたないからです。(c)ですから私は、彼らが私のそばで育てられることを喜びませんでした。(a)本当の正しい規律ある愛情は、われわれが子供たちを理解するのと同時に生まれて増大すべきものであります。」第2巻第8章
「私は、幼い精神を名誉と自由に鍛えようとする教育においては、あらゆる暴力を非難いたします。厳格と強制には何かしら奴隷的なものがあります。また、理性と知恵と巧妙によってなしえないものは、暴力によってはけっしてなしえないと考えます。」第2巻第8章

 子どもが可愛くないという主張は、実はキリスト教的原罪観からすれば不思議でもないし、中世に同じように子どもをクサすような詩があったことがホイジンガ『中世の秋』でも報告されているが、現代的な観点からは少々意表を突かれる。
 また改めて体罰を否定している。よほど嫌いなのだろう。

「同じ学校と同じ教育からでさえ、これよりも画一で一様な行為が出て来ることがありうるだろうか。」第2巻第12章
「最後まで徹底的に戦う闘技士を訓練する厳しい学校では、次のような宣誓をさせるのがきまりだった。(中略)それでもある年にはこの学校に入って命を失った者が一万人もあった。」第2巻第12章
「人間を害する病毒は、人間が自ら知識があると思うことである。だからこそ無知はわれわれの宗教によって、信仰と服従にふさわしい特性として、あれほどに讃えられたのである。」第2巻第12章
「神の知恵を知るのは知識よりもむしろ無知を介してである。」第2巻第12章
「ある人々は、「ある一つの、母体のように大きな、普遍的な精神があって、すべての個別的な精神はそこから出て行き、そこに帰り、この普遍的なものと常にまじり合う」と言った。」第2巻第12章
「三千年もの間、天と星とが地球のまわりを運行し、皆もそう信じていた。(中略)今日ではコペルニクスがこの説を立派に根拠づけて、あらゆる天文学の結論に正しく利用している。われわれがここから学ぶべきことは、二つの説のどちらが正しいかなどと頭を悩ましてはならないということではないだろうか。それに、これから千年後に第三の説が出て前の二つの説を覆さないとはだれにも保証できないのである、」第2巻第12章
「ところが、今世紀になって、一つの島とか一つの地域とかいうものでなく、われわれの知っている大陸とほとんど同じくらい広い、果てしもなく大きな大陸が発見されたではないか。」第2巻第12章
「われわれは愚かにもある一つの死を恐れているが、すでに多くの死を通過し、また別の多くの死を通過しつつあるのである。実際、ヘラクレイトスが言ったように、火の死滅は空気の誕生であり、空気の死滅は水の誕生であるばかりでなく、同じことはもっと明白にわれわれ自身の中に見ることができるのである。花の盛りの成年期が死んで過ぎ去ると、老年期がやって来る。青年期が終わると盛りの成年期になり、少年期が終わると青年期になり、幼年期が死ぬと少年期になり、昨日が死んで今日になり、今日が死んで明日になる。何一つとして同一のままでいるものはない。」第2巻第12章

 エセー中最大の分量を誇る「レーモン・スボンの弁護」の章だ。一般的に懐疑主義の観点で言及されることが多く、確かに懐疑派セクストゥス・エンピリコスからの引用も見られる。東洋的な無常観の表現も目立つが、これは古代ローマのオイディウスにも見られる考え方だし、実際にモンテーニュも引用している。またルクレティウスが極めて頻繁に引用されていることも目を引く。ルクレティウスはエピクロス派の唯物論者だ。また通奏低音としてキリスト教的反知性主義の考えが響いている。このあたりがモンテーニュの死の4年後に生まれるデカルトの懐疑に引き継がれているかどうかは興味深いところだ。
 教育学的な観点からは、アリストテレス的権威とか人文主義的全能感から完全に距離を置いているところが注目か。この懐疑の姿勢は、エセー全編で繰り返される日常生活に関わる実践的な道徳性を重視する姿勢と響き合っていて、まだデカルト懐疑的な科学主義には繋がっていかない。

「さて、我が国の教育が愚劣であるという問題に戻ろう。わが国の教育はわれわれを善良で賢明にすることではなく、物知りにすることを目指して、その目的に到達した。われわれに徳と知恵を追いかけ、抱きしめることを教えずに、それらの語の派生と語源をたたき込んだ。」第2巻第17章

 全編を通じて見られる教育に対する考え方がここでも繰り返されている。モンテーニュは知識の詰込みを批判し、日常生活を豊かにする道徳性を重視する。

「われわれの肉体の病気や状態は、国家や政体の中にも見られ、王国や共和国も、われわれと同じように、生まれ、花咲き、年老いてしぼむ。」第2巻第23章

 有機体論的国家観の表現があったのでサンプリングしておく。

「(a)プルタルコスはいたるところがすばらしいが、人間の行為を判断しているところは、とくにすばらしい。リュクルゴスとヌマを比較した箇所で、子供の教育と監督を父親に任せておくことがきわめて愚かであると言ったのは見事である。(c)アリストテレスも言っているように、たいていの国家は、キュクロプスたちのように、妻や子供の指導を、男の愚かで無分別な気まぐれに任せている。子供の教育を法律で規定したのは、せいぜい、ラケダイモンとクレタ島の国民くらいである。(a)国家のすべては子供の教育と養育の如何にかかっていることを知らない者があるだろうか。にもかかわらず、人々はこれを実に無分別にも、親の気ままに任せている。親がどんなに愚かで悪者でも一向にお構いなしである。」第2巻第31章

 「じゃあ誰に子どもの教育を任せるんだ」という疑問にモンテーニュは答えてくれない。この章は「怒り」について扱っていて、教育の話は冒頭に出て来るだけだ。とはいえ、教育を「法律で規定」することが良いことだと考えているらしいことまでは伺うことができる。

「だが、われわれの精神や学問や技術が考え出したものに対しては不信をいだいている。われわれはそれの肩を持つあまり、自然と自然の掟を捨て去って、節度と限度を守ることができなくなっている。」第2巻第37章

 この表現は即座にルソーの学問芸術論や自然主義教育を想起させる。モンテーニュがルソーにどの程度の影響を与えているかも気になるところだ。

「すべてのものがたえず動いている。台地も、コーカサスの岩も、エジプトのピラミッドも、世界全体の運動とそれ自身の運動で動いている。恒常不変ということさえ、やや緩慢な動揺にすぎない。私は私の対象[である自己]を確定することができない。それは生れつき酔っ払って、朦朧と、よろめきながら歩いている。」第3巻第2章
「世の著者たちは自分を何かの特別な珍しいしるしによって人々に知らせる。私は、私の全存在によって、文法家とか、詩人とか、法曹家としてでなく、ミシェル・ド・モンテーニュとして、人々に自分を示す最初の人間である。」第3巻第2章
生れつきの傾向は、教育によって、助長され強化されるが、改変され克服されることはほとんどない。今日でも、何千という性質が、反対の教育の手をすりぬけて、あるいは徳へ、あるいは不徳へと走っていった。」
「もしも、自分自身に耳を傾けるならば、自分の中のある特有な支配的な本性が、教育に対し、あるいは、この本性に反する様々な感情の嵐に対して、戦っているのを発見しない人はない。」第3巻第2章
私の判断は、いわば誕生以来、常に同一で、同一の傾向と同一の道筋と同一の力をもっているからである。世間一般の意見については、私は子供のときから、常に私の留まるべき場所に落ち着いている。」第3巻第2章
「うぬぼれるわけではないが、同じような状況の下では、私はいつでも同一であろう。」第3巻第2章

 ここに見られる描写は、もう個人的には「近代的自我」と呼んでみたくなる。肩書きなどには左右されない、一貫した性格としてのわたし。
 そして私の一貫性に対して、教育なるものが無力であるという描写にも注目すべきか。いわゆる「氏か育ちか」論争で、モンテーニュは氏の方に軍配を上げている様子だ。ただし似たような考えはクィンティリアヌスにも見られる。

「われわれは女性を子供のときから恋愛に奉仕するようにと仕立てる。彼女らの魅力や衣装や知識や言葉等、すべての躾けはこの目的だけを目指している。彼女らを躾ける女の家庭教師たちは、恋愛に対して嫌悪の念をいだかせようと絶えず言いきかせながら、かえって恋愛の姿だけを心に刻み込む。」第3巻第5章
「さて、書物を離れて、実質的に、単純に語るならば、恋とは結局、(c)望ましいと思う人を(b)享楽しようとする渇きにほかならない。(中略)ソクラテスにとっては恋愛は美を仲介とする生殖の欲望である。」第3巻第5章

 「恋愛」に対する即物的な見解が示される章だ。ここで表現されている「恋愛」の中身が近代的な自由恋愛を指しているかどうかについては十分な注意を要する。さすがルクレティウスの徒だ、とでも言っておくべきところか。隠語として「ウェヌス」を使い、連発するところは、なかなか滑稽だ。

「われわれは大砲や印刷術の発明を奇跡だなどと叫んでいたが、世界の別の端の支那では別の人々が千年も前からそれを使っていたのである。もしもわれわれが世界について見ていないのと同じ分量だけのものを見ることができたら、おそらく、事物が絶えず増加し変化することを認めるにちがいない。自然にとって唯一のもの、稀有なものは一つもない。」第3巻第6章

 物事が常に変化するというオイディウス的なものの見方が繰り返されている描写だが、「印刷術」というテクノロジーに対する見解が示されているところなのでサンプリングしておく。

「アテナイ人は、いや、ローマ人もそうだが、学校で話合いの練習をすることを大いに重んじた。現代ではイタリア人がいくらかその跡をとどめ、それで大いに得をしている。」第3巻第8章

 第3巻第8章「話し合う方法について」は、論破を良しとする現在の風潮に対しても有効な見解を示しているが、もちろんモンテーニュにとっては宗教改革に伴う世界の分断が念頭にあるだろう。ともかく人間は進歩しない。

「子供のない境遇にもそれなりの幸福はある。子供というものは、それほど強く欲するのに値しないものの一つである。特に子供を立派に育てることがきわめてむずかしい現代ではそうである。(中略)(b)だがそれでも、一度子供を得たあとに失くした人にとって、それが哀惜に値するのは当然である。」第3巻第9章

 なんだか現代のSNSに書いてあっても違和感のない表現ではある。が、モンテーニュが同時代を「子供を立派に育てることがきわめてむずかしい」と理解していたことには注目しておきたい。知識中心主義の詰込み教育によって日常生活を豊かにする道徳教育がないがしろにされている風潮を憂いていると考えていいところか。

ソクラテスについて「彼はまた常に同一であった。一時の衝動からではなく、性格から、もっとも逞しい人間性にまで自己を高めた。いや、もっと正しく言えば、何も高めなかった。むしろ、すべての強さ、激しさ、困難さを、自分の本来の自然の程度にまで引きおろして服従させたのである。」第3巻第12章
「われわれが安穏に生きるためにはほとんど学問を必要としないソクラテスも、学問がわれわれ自身の中にあること、それの見いだし方と用い方を教えている。自然にそなわる能力を超えた能力はすべて、むなしいよけいなものだと言ってよい。」第3巻第12章

 このソクラテスは、プラトンの描くソクラテスではなく、クセノフォンの描くソクラテスだ。政治家としての業績もある実践的なモンテーニュは、観照的なプラトンよりも実践的なクセノフォンんのほうに親和的なのだろう。一方、ここで同一(アイデンティティ)の表現が現れることにも注意しておきたい。

「子供らを育てる仕事は自分で引き受けてはいけない。いわんや、妻になどまかせてはいけない。庶民の、自然の掟の下で、運命が子供らを作り上げてくれるのに任せるがよい。習慣が粗食と艱難に鍛えてくれるのに任せるがよい。」第3巻第13章

 これも直ちにルソーの自然主義教育を想起させる表現だ。というか、『エミール』の要約みたいになっている。ルソーが影響を受けたかどうかだけでなく、モンテーニュによって読者層の側にルソーを受け入れる準備が整っていた可能性も考えていいのかもしれない。

モンテーニュ、原二郎訳『エセー(一)』岩波文庫、1965年
モンテーニュ、原二郎訳『エセー(二)』岩波文庫、1965年
モンテーニュ、原二郎訳『エセー(三)』岩波文庫、1966年
モンテーニュ、原二郎訳『エセー(四)』岩波文庫、1966年
モンテーニュ、原二郎訳『エセー(五)』岩波文庫、1967年
モンテーニュ、原二郎訳『エセー(六)』岩波文庫、1967年