【要約と感想】山上浩嗣『モンテーニュ入門講義』

【要約】モンテーニュの主著『エセー』の内容を、最新の研究の成果を参照し、宗教戦争による内乱という時代背景を踏まえ、自然観・死生観・教育観・文化相対主義・友愛論・政治観・身体論の領域に整理して、考え方の変化にも注意しながら読んでいくと、現代の我々の目から見ても古くなっていない、様々な人生の知恵に触れることができます。

【感想】今年の個人的な教養テーマは「ルネサンス」ということにしたが、ダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョ、マキアヴェッリといったイタリア・ルネサンスの主要人物をなんとなく一通り眺め終わったので、次はフランスに取り掛かろうとするものの、ラブレーもモンテーニュもパスカルも主著が大部すぎて、どこからとりついたらいいか正直よく分からない。まずは入門書を読もう、ということで手に取ったのが本書だったが、大正解だったようで、とても分かりやすく、なんだか『エセー』そのものを読んだ気になっている。が、ちゃんと本体も(翻訳で)読もう。
 とはいえ個人的な興味関心からは食い足りないところもあって、特にエピクロス主義との関係はかなりモヤモヤしている。『エセ―』の特徴とされる自然主義や快楽主義は、もちろんストア派や古代懐疑派とは異なるエピクロス派の大きな特徴でもある。そしてイタリア・ルネサンスにエピクロス主義の影響が見られることは周知の事実である。魂と身体の関係についても、カトリックを標榜するモンテーニュから明確な言質は取れないのだろうが、なんとなくエピクロス流の唯物論を感知する。さらにエピクロス派は社会契約論的な議論も展開しているが、それは王権支配を人工的な制度(すなわち変更可能)と喝破するモンテーニュやラ・ボエシの議論にどれくらい影響を与えているのか。あるいは後のフランス革命を準備する思想的背景になったりもしていないか。という観点から、モンテーニュとエピクロス主義の関係が気になるわけだ。しかし本書は、そういう関心には応えてくれない。ルクレーティウス(エピクロス派詩人)の本に接触しているだろうまでは分かる、というくらいか。まあ入門講義の体裁を採っている本書そのものの問題ではなく、私が自分で『エセ―』を読んで研究を進めればいいだけの話ではある。読もう。

【個人的な研究のための備忘録】パイデイア
 本書は『エセ―』を読む際の観点の一つとして「パイデイア」を挙げている。「パイデイア」というギリシア語は、日本語に翻訳する場合には「教育」という単語をあてがうことになるのだろうが、現代日本で言う「教育」とギリシア語の「パイデイア」では実質的な意味はかなり異なっている。instructionでもinstitutionでもなく、パイデイアであるところが重要なのだ。だから本書は「当時としては先進的な教育論」(133頁)と言っているが、実はinstructionでもinstitutionでもない「パイデイア」としては至極当たり前のことを言っているだけではあった。

「モンテーニュは『エセ―』のなかで、教育の目標として知識を蓄えることよりも判断力を高めることを重視しています。」138頁
「次の一文では、教育の目標が判断力の形成であることが明確に主張されています。
 よき教育は、判断力と品性mœursを変化させる。」139頁
「モンテーニュは、知識よりも判断力、記憶よりも思考力の涵養を重視していました。知識は、単にひけらかすものではなく、自身の体内に養分として取りこむ必要があると言われていました。」172頁

 このあたり、幼少期からの語学力の育成(あるいはクインティリアヌスやキケロ流の雄弁家教育)を重視していたエラスムス教育論よりも、人格の形成という「パイデイア」本来の観点からはより近代的(あるいは古代的)であり、大枠ではロックやルソーに近づいている。となると本質的な問題は、エラスムス(16世紀前半)とモンテーニュ(16世紀後半)を隔てているものは何か?ということになる。単に個人的な資質の相違ということにしていいのだろうか。

「精神だけではなく、身体も鍛えなければならないという考えは、とても新しく、これ以後常識になる考えです。ルソーが『エミール』のなかで取り入れている考えでもあります。」169頁

 もちろん教育史的には、古代においてプラトンやアリストテレスが体育を重要視しているし、近代においてもルソーの前にロックが体育の重要性を指摘しているのも周知の事実だ。しかしやはり本質的な問題は、エラスムスやコメニウスにないものがどうしてモンテーニュにあるのか、ということだ。

「ここでモンテーニュは、のちのデカルトと同じように世界を書物にたとえ、旅を通じて、その書物を読み取ることを勧めています。」174頁
「モンテーニュにとってあるべき人間像は、書物のみならず旅を通じた実地の修行を経て、自律的な判断力をそなえ、自然の偉大さと自分自身のありかたを知り、そのありかたに即した真の自己の実現を目指す人間です。その人間は、決して利己的な存在ではなく、他者や世界とのかかわりにおいて必要な役割を十分に果たす存在です。」186頁

 世界を書物に喩える、あるいは書物を世界に喩えるのは、ここから始まったのか、どうか。ともかく「真の自己の実現を目指す」のは、ギリシア・ラテン以来のパイデイアの王道だ。ソフィスト的な知のあり方を批判し、自己自身の魂を向け変える営みこそを教育と考えるソクラテス・プラトン以来、マルクス・アルレリウスなどストア派にも引き継がれる伝統だ。この伝統を端的に表明しているのは、ユマニストとしての面目躍如である。

【個人的な研究のための備忘録】無知
 しかし一方で気になるのは、モンテーニュがどうやら「無知」を称揚しているらしいことだ。

「モンテーニュが無知を学問よりも優れた知恵であるとして尊重するのは、学問が不遜にも、あたかも自然の秘密を解き明かしたと勘違いし、浅薄な知識に基づいて誤った判断を行うからです。」「理性の無力さを自覚し、「自然」に服従する無知こそが、より優れた、より有益な知恵なのです。」419頁

 西洋世界で「無知」を称揚するのはモンテーニュに限った話ではなく、古代のソクラテスやアウグスティヌス、中世のクザーヌスやエックハルトやトマス・ア・ケンピス、ルネサンスのペトラルカやエラスムスにも見られる、かなり普遍的な発想だ。このキリスト教的な反知性主義がユマニスト的なパイデイアとどう整合性をもって響き合うかは、教育原理として重要な論点となる。

【個人的な研究のための備忘録】近代的自我
 「近代的自我」を発明したのがモンテーニュだ、というような文章があった。

「ミシェル・オンフレーという現代の哲学者は、モンテーニュによる哲学史上の発明が少なくとも十三項目数えられると述べています。「非宗教的思考」、「近代的自我」、「経験主義哲学」、「文化相対主義」、「合理的宗教」、「動物愛護思想」、「フェミニズム」、「(近代的)教育学」などなどです。」419頁

 これはさすがにイタリア・ルネサンスの成果を完全に無視していて、イタリア人を見下して優位に立ちたいフランス人の自尊心を満足させる見解に過ぎないだろう。とはいえ100%デタラメというわけでもなくて、近代的自我とか近代的教育学を考える上でモンテーニュが最重要人物の一人だということ自体は間違いない。勉強しよう。

【個人的な研究のための備忘録】人類補完計画
 モンテーニュの友人であるラ・ボエシの文章を引用する中に、人類補完計画的な発想を見つけたのでメモ。

ラ・ボエシ『自発的隷従論』
「われわれが個々別々の存在であるよりも、みんなでひとつの存在であってほしいという希望を、なにかにつけて示してくれた」277頁

 こういう発想は新約聖書の中にも既にいろいろ見られるところで、キリスト教的には異口同音に表現されている。しかしこの発想がホッブスのリヴァイアサン的なアイデアと響きあったりルソーの一般意志のような概念に関係してくる可能性があったりすると、個人的にはおもしろいな、と思う。『自発的隷従論』も本書の著者による訳書がある(とてもありがたい)ので、目を通したい。

山上浩嗣『モンテーニュ入門講義』ちくま学芸文庫、2022年