【茨城県筑西市・下妻市】関城・大宝城は南朝方重要拠点、附:多賀谷城

 北畠親房は小田城を逃れて関城へ向かいます。

 小田城からは西北西に20km弱という感じでしょうか。

 関城も国指定史跡に指定されています。保存状態は小田城には劣りますが、大規模な開発から逃れて、遺構もしっかり残っており、たいへん見応えがあります。

 城主の関宗祐の墓。南朝に尽くした忠臣ということで、明治以降は人気が出たんでしょうね。

 案内板によると、北畠親房が神皇正統記を完成させたのは関城にいた頃のようですね。関城は1343年、北朝の高師冬に攻められて落城し、城主は討ち死に、親房は吉野に逃れているようです。案内板に「下妻城」とあるのは、次に行く大宝城と同じ城のはずです。

 関城の東側に回ると、筑波山が遠くに見えます。南北朝の時代には、このあたり一帯は沼になっていて、難攻不落の要塞になっていたんでしょうね。今は一面の水田になっています。

 続いて南朝のもう一つの本拠地だった大宝城へ。

 大宝城は、関城から南へ1kmほどのところに位置しています。南北朝の当時は、関城と大宝城の間には沼があって、舟で行き来していたようです。

 大宝城の石碑の脇に、紫陽花が咲いていました。

 案内板。こちらには小田城から逃れた春日顕国が入っているようですね。

 跡地に立つ八幡宮の御由緒。南朝方に感情移入するような説明になっています。

 大宝八幡宮の宮司さんが保育園を経営していて、実は仕事でお邪魔する機会がありました。本殿の中や宝物殿にも特別に入れてもらって、たいへん眼福でした。素晴らしいところです。

 1343年の戦いで討ち死にした大宝城主、下妻政泰の忠臣碑。明治になってから、忠臣として顕彰されたんでしょうね。

 搦め手の方には、紫陽花園があります。

 南北朝時代には大激戦地でしたが、現在は紫陽花が咲き誇り、子どもたちの歓声も聞こえて、とても平和です。

 さらに南に行くと多賀谷城がありますが、こちらは南北朝期の後、戦国時代に大きな勢力となる多賀谷氏の本拠地です。

 もともとはかなり広大な城郭でしたが、現在は本丸付近のみを残して公園となっております。

(2013年6月、2020年2月、2020年6月訪問)