【要約と感想】中谷功治『ビザンツ帝国―千年の興亡と皇帝たち』

【要約】4世紀始めのコンスタンティノープル遷都から、1204年の第四回十字軍による占領を経て、1453年にメフメト2世によって首都が陥落するまで、1000年以上にわたるビザンツ帝国の激動の歴史を、皇帝の事跡を中心に、皇帝と貴族の関係、首都と地方の関係(テマ制)、政治と宗教(ギリシア正教)との関わりという観点に注目しながら描きます。

【感想】高校世界史の教科書レベルでは書いていないことばかりでとても勉強になった上に、昨今の世界情勢も踏まえていろいろ思うところがあった。

 まず「中世」という概念について。「中世とは何か?」という問いは、「近代とは何か?」とか「ルネサンスとは何か?」という問題意識とセットとして追求するべき問題なわけだが、本書を読んでいると、まさにビザンツ帝国(=東ローマ)の存在こそが中世だとも考えたくなってくる。東ローマの文化と宗教と皇統を引き継ぐビザンツ帝国が存在感を発揮している限り、いわゆるヨーロッパ(=西ローマ)が独自の領域と歴史を持った世界として認識されることはなかったのではないか。というかそもそもヨーロッパ人がビザンツ帝国を「ビザンツ」と呼ぶこと自体が失礼な話であって、ビザンツ帝国は実質的にも手続き的にも「ローマ帝国」と呼ぶに相応しい国家だ。それを「ローマ帝国」と呼ばないのは、ヨーロッパ人がそれを事実として認めたくないというだけの話だ。
 そんなわけで、現在の我々がイメージする近代ヨーロッパ(時間的にも空間的にも)は、ビザンツ帝国(つまり中世)を忘却したところに成り立つ。あるいは、ビザンツ帝国を完全に忘却しても時間と空間の辻褄が合うように捏造された概念がいわゆる「ルネサンス」ということになるのだろう。実際に、いまヨーロッパが自らのルーツと自認しているギリシアの伝統は、実はもともと西ヨーロッパ(つまりゲルマン人の世界)には影も形も存在せず、ビザンツ帝国に蓄えられていた文化を学習(あるいは簒奪)して獲得したものだ。
 そういうふうに、ヨーロッパ近代を「ビザンツ帝国を忘却してギリシア文化を自らの起源だと強弁するもの」だと定義するなら、それが可能になるのはビザンツ帝国が滅亡した後になるから、必然的に「中世」の定義は「ビザンツ帝国が存在している世界」ということになる。

 そして「帝国」という概念について。ビザンツ帝国は、紛れもなく「帝国」だ。というのは、近代的なnationalityの概念を当てはめることがまったくできない多民族国家だからだ。ビザンツ帝国が国として存在できるのは皇帝という一つの人格の下に「力」が統一されているからであって、この皇帝の人格が失われたときに、「ビザンツ民族」なるnationは存在しない以上、国体=nationalityは容易に失われることになる。たとえば逆にユダヤnationのあり方を考えてみると、ユダヤ人には「王」という「力の統一」は長らく失われているにも関わらず、nationalityそのものは失われていない。「ユダヤ民族」というnationが存続している以上、王という人格の有無はnationality存亡の決定的な要因とならないわけだ。同様に、フランス革命によって「フランス王という人格」が失われたとしてもフランスというnationalityはむしろ強固になったことを思い出してもよい。しかしビザンツ帝国の場合は、国を国として統一する原理が「力」しかなかったために、皇帝の人格が失われると共に国体も失われることになる。つまり「帝国」とは本質的に中世的な概念であって、逆に近代とはnationalityが根本的な原理となった時代を指す。
 そう考えると、本書が中央政権と地方行政の関係をテマ制を中心に丁寧に見ているのは、「帝国」のあり方を考える上で本質を突いているわけだ。本書を読んで驚くのはあまりにも地方の反乱が続出するところだが、nationalityが成立していないとは要するにそういうことだ。国を国としてまとめる原理が「力」しかないのであれば、もし仮に地方が「力」を持てばそこが一種の「国」となるのも当然の話だ。そして最も「力」を持つ者を「ローマ皇帝」と呼ぶのであれば、皇統の正統性もなにもあったものではなく、ただただその時点で最大の力を握った者が皇帝を僭称するだけの話だ。しかしnationalityが成立しているところでは、そういう話にならない。

 ただ問題になるのは「宗教」だ。ビザンツ帝国が国としての体裁を保てたのは、実は単に「力」の論理だけでなく、ギリシア正教という宗教的な権威が背景にあってのことだった。ビザンツ皇帝が皇帝であるためには、軍事力だけでは十分ではなく、宗教的な権威も味方につける必要がある。近代国家ではnationalityが国を国としてまとめる凝集力になっているが、中世国家では宗教がこの凝集力を集めていた。日本の歴史を振り返ってみても、武家政権という最高の軍事力が皇統の正統性を冒さなかったのは、nationalityというよりは宗教的権威に理由があるだろう。本書ではいわゆる「皇帝教皇主義」に関する通説に留保をつけていたものの、ビザンツ帝国の国体を考える上ではどうしてもギリシア正教との関係を考えざるを得ない。国が国として成立する凝集力を保つために、軍事力以上に宗教というものが決定的な役割を果たすことについては、ユダヤ人のあり方を考えてもよいのだろう。

 そして現在の世界情勢との絡みでどうしても念頭に浮かぶのは、本書でも触れられている「第三のローマ」であるところのロシアの帝国主義的な蛮行である。4世紀前半、コンスタンティヌス帝によってローマ帝国の首都がローマからコンスタンティノープルへと遷された。そしてコンスタンティノープルの陥落に伴って、その都は今はモスクワに遷っているとロシア正教は言う。これは現実的な政治の話ではなく、国が国として成立するための凝集力がどこにあるのかという宗教的権威に関わる話だ。ロシア正教会は、「第三のローマ」というスローガンを掲げて、2000年の伝統を誇るキリスト教の正統性を自らが握っていると主張する。西ローマ帝国の消長に連なるローマ・カトリック教会としては認めがたい主張だろうが、東ローマからビザンツに連なる勢力としてはカトリックの方が無茶苦茶やっている(具体的にはカール戴冠とかオットー戴冠にどんな正統性があるというのか)という見方になるし、その主張に一定の理があることは認めなければならない。
 思い返してみれば、かつて「第三の帝国」を標榜した集団があったことに気がつく。ナチス・ドイツだ。第一帝国がオットー戴冠によって成立した神聖ローマ帝国、第二帝国がビスマルクによるドイツ帝国、そしてワイマール体制という国家の体をなしていない時期を挟んで、第三帝国がナチス・ドイツということになる。そしてこの「第三帝国」には、キリスト教神学を背景に「神の国の到来」をイメージさせる響きもある。そういう歴史的事実を踏まえると、ロシア正教会が「第三のローマ」を自称して宗教的権威の正統性を主張していることについてどう考えればいいのか。まあ、陰謀論でも何でもなく、プーチンとロシア正教会大主教自ら帝国主義的な侵略路線を大々的に宣言しているわけだが。

 言うまでもなく、ロシアは多民族国家だ。ロシアという領域に住んでいるのはロシア人だけではない。だから、国を国としてまとめる凝集力として「ロシア民族性というnationality」に期待することはできない。もしnationalityに依拠すると、ロシア領内に住む多民族(nation)の自決権をも認めなくてはならない理屈になってしまう。だからプーチンとしては、ロシア領内の多民族の自決権を否定しつつも、国を国として凝集させる論理を構築しなければならない。結果として、「主権」という概念を弄して「nationではあるがstateたる要件はない」という理屈を繰り返し強弁して民族自決権を挫き、現実的には「力」を見せつけつつ、しかし多数のnationを帝国主義的にまとめあげる原理としては宗教に期待するしかない。ロシア正教が果たしている役割は、「第三のローマ」というスローガンも深く絡んで、おそらく我々日本人が想像する以上に大きいような気がする。

 ということで、本書を読みながら、まさにビザンツ帝国が体現していた「中世」と「帝国」と「宗教的凝集力」という前時代の亡霊がプーチンの背後で蠢いているような気がしたのであった。しかしロシア正教は仮にも2000年の伝統を誇るだけ、まだマシなのかもしれない。中国が国民的凝集力の核として「習近平思想」を持ち込んでくるのは、ギャグとしか思えない。中国には他に誇るべきものがいくらでもあるというのに。今こそ「国破れて山河あり」という章句を味わうのがよろしいのではなかろうか。

「ところが、ビザンツ帝国では「デモクラティア」という養護の意味は、これらとはまったく異なる軽蔑的な色彩を帯びていった。そもそも史料でこの用語が登場するケースはまれになるのだが、その際の意味は「混乱」とか「騒乱」なのである。つまり、ビザンツにあっては皇帝が君臨する君主政体が常態であって、デモクラティアとはそれを欠いた不測の事態なのであった。」96頁
「ところが、帝国は崩壊の局面に入ると予想外にあっけない、あるいは長い混迷の時期が続くケースが多いようだ。そして、帝国が解体するとき、そこに混在して生活してきたエスニックな諸集団が「民族」などの形態をとってシビアな対立抗争を展開する。」288頁

 引用したのはもちろん本書内でビザンツ帝国を説明した文章なのだが、さてはて、ロシア(あるいは中国)の現状と未来を言い当てる文章になるかどうか。
 ただ心配なのは、日本にもこういうふうにデモクラティアを否定してビザンツ(およびロシア・中国)のような権威主義専制国家に憧れる層がそうとうたくさん存在しているというところだ。習近平思想を想起させるような文章で国民統合を実現しようと試みるところもよく似ている。今後の世界で説得力を持つのは、デモクラティアか、権威主義的専制か、さてはて。

中谷功治『ビザンツ帝国―千年の興亡と皇帝たち』中公新書、2020年