【要約と感想】小泉悠『「帝国」ロシアの地政学―「勢力圏」で読むユーラシア戦略』

【要約】ロシアの行動原理を「勢力圏」と「主権」という観点から説き明かします。まず問題はプーチンが考える「ロシア」の範囲で、国境線の外にあるロシア語を話す人々が住む地域も射程に入っています。特に旧ソ連だった地域、なかでもウクライナとベラルーシについては、ほぼロシアだと見なしています。さらに「主権」の概念を、同盟国に防衛を頼る国家には与えられていないと考えるので、NATO加盟を目指すウクライナには主権が存在せず、「国家未満」の扱いでよいという理屈になります。そうなると、日米同盟に寄りかかる日本にも「主権」などないと見なされるので、北方領土に関する議論をする余地など一切ありません。

【感想】興味深く読んだ。もちろん昨今のウクライナ危機を理解しようという動機で手に取ったのだが、古くて新しい普遍的な問題を、具体的な事例を通じて浮き彫りにしてくれる本でもあった。
 普遍的な問題とは、「国民国家」の理念にまつわる問題だ。中世までの家産国家であれば考えるまでもなかったことが、ナポレオン以降の「国民nation=国家state」では決定的に重要な問題として浮上する。その問題とは、nation(民族)とstate(主権国家)の境界線は一致しているべきであり、一つのnationは一つのstateを持つべきだという民族自決権の理念だ。nationとstateの境界線が比較的一致しているように見える日本であっても、丁寧に見てみれば、実はその境界は不安定だ。たとえばアイヌや沖縄に対して攻撃的な言動を行う人の背後の世界観には、nation(日本人)=state(日本国)の理念が背景にある。そしてロシアの行動原理の背景にも、nation(ロシア人)とstate(主権国家)の境界が一致するべきだという理念があるわけだが、ただし大きな問題になるのは、nation(ロシア人)の範囲についても、state(主権国家)の範囲についても、ロシア人(あるいはプーチン)は独特の考えを持っているというところだ。

 まずnation(ロシア人)について、プーチンを始めとするロシア人権力者は、「ロシア語を話す人々」をロシア人だとみなしている。そして同時に彼らはウクライナ語を独自の言語と見なさず、ロシア語の一変種(いわゆる方言)と見なしている。ロシア人権力者から見れば、ウクライナ(あるいはベラルーシ)に住む人々は問題なくロシア人として扱うべきだという理屈になる。
 そしてさらにプーチンにとってのstate(主権国家)とは、他の国の干渉を受けずに自主自存できる権力体だけを意味する。他国からの干渉を余儀なくされている権力体には主権がなく、state(主権国家)の資格はない。この理屈が通るとすれば、NATO入りを目指すウクライナには主権などないし、同様に日米安保の庇護の下にある日本にも主権などない。
 こういうnationとstateについての特異な理解の下に、プーチンは国家戦略を積み上げてきた。その結果起こったのが、2008年のジョージア侵攻であり、2014年のクリミア併合であり、2022年のウクライナ侵攻ということになる。(逆にこの理屈から言えば、北海道への侵攻はあり得ないということになる。)

 ということで、それはあまりにもあまりな20世紀的思考だ。まあ19世紀的な帝国主義の論理に先祖返りしていることはないにしても、21世紀を切り拓く思考ではない。20世紀的な思考枠組みに固執している限り、遅かれ早かれ、破綻するだろう。
 とはいえ、原理的な観点から大局的に見れば、それはもちろんロシアだけが抱える問題ではない。nation-stateの理念に基づく原理的な問題はアメリカにも日本にもヨーロッパにも潜んでいるし、様々に具体的な形で表面化している(Brexitとか)。仮に2022年のウクライナ危機が何らかの形で収束するとしても、このnation-stateの問題はまたどこからか噴出するに決まっている。nation-stateを超える原理の模索は1990年代から様々な形で試みられてきて、多国籍企業とかインターネットなどに希望が見出されたこともあったが、今のところ説得力を持ちそうな気配はない。
 ソ連が崩壊して20世紀が早々と終わったような錯覚があった(いわゆる短い20世紀とは1917年ロシア革命から1991年のソ連崩壊まで)が、実は我々はまだ20世紀のまっただ中にいたということなのだった。個人的に思うところでは、1870年の普仏戦争(これに日本の明治維新を加えてもいい)を起点として、「長い20世紀」という観点から現代史を構想し直すと、今回のロシアの暴挙も含めて、nation-stateの理念を軸として問題点が整理できる、ような気もする。そして「主権」という概念は、問題を整理する上で極めて有効な補助線になるのだろう。

■小泉悠『「帝国」ロシアの地政学―「勢力圏」で読むユーラシア戦略』東京堂出版、2019年