山本夜羽音さんに哀悼の意を表する

 2022年3月14日夜、マンガ家の山本夜羽音さんが亡くなった。心不全と聞いたが、個人的にはコロナ後遺症の影響を強く疑う。生前にいろいろお付き合いがあったので、故人との個人的な思い出を語り、哀悼の意を表する。

 夜羽音さんと初めて会ったのは2002年の夏だったから、ちょうど20年が経とうとしている。きっかけは、メガネっ娘居酒屋「委員長」だった。それまで面識のなかった夜羽音さんからいきなり声をかけられてイベントに関わることになったのだが、まさかその時は後々まで彼の尻ぬぐいをすることになるとは想像していなかった。夜羽音さんはアイデアを出してイベントを打ち立てるところまではいいのだが、実務能力が欠如しているというか、関心がそっちに向かないというか、彼に欠落した部分を誰かが肩代わりしないとイベントそのものが成立しなくなるので、それをいち早く察知してしまった私が結局全般的に尻ぬぐいをすることになったのではあるが、特に恨んでいるわけではない。楽しかった。「委員長」が盛り上がったのはもちろん夜羽音さん一人の力によるものではないけれども、でも彼特有の空気を読まない妄想力と無鉄砲な行動力がなければ始まらなかったことも、また確かなことだ。

 2002年夏、委員長の事前打ち合わせで憧れの西川魯介先生にお目にかかる機会を得たりするなど個人的にはテンションが上がりつつ、パンフレットの作成が遅滞していたことは気がかりだった。具体的には、夜羽音さんの原稿が遅い。締切ぎりぎりまで描いていて、なぜか私が原稿を取りに行くことになって阿佐ヶ谷の自宅にお邪魔し、ゴミ屋敷寸前の大変な状況に驚愕しつつ原稿を回収したものの、しかしおかげで入稿がギリギリすぎてパンフレットの完成がイベント当日の夕方という超強行日程となってしまい、もう気が気でない。イベント当日お昼に会場のロフトプラスワンに顔を出してみると、開場6時間前だというのに入場待ちの方が3人いらっしゃって、その時点で何かが始まっている予感を抱きつつ会場を後にしてパンフレットを受け取りに印刷所に行くと、何と強風で電車が止まるという予想外のアクシデントに見舞われて、まさに顔面蒼白になっていたところ、なんと印刷所の社長さんが車で新宿まで送ってくれるという江戸っ子人情のおかげで事なきを得て、開場1時間後にしてようやくロフトプラスワンに辿り着いたときの光景には、目を見張ったというか何が起こっているのかにわかには理解できなかった。会場に入りきらない同志が、店の外にわんさかと溢れていたのだ。話を聞くと、150人の会場に500人以上が押しかけたようで、ギュウギュウに200人を押し込んだものの、もちろん全員入れるわけもなくやむなく帰った方もいる中、急遽店外にモニターを用意して中の様子が分かるようになったのだという。人の波を掻き分けながら会場に入ったときには既に圧倒的な熱量で、途方もないことが起こっていることを直観し、なんだかわけもわからず涙が出てきたのだった。夜羽音さんは壇上で楽しそうに声を張り上げていたが、後から聞いたところ、やはりぎりぎりまで原稿をしていて遅刻したそうだ。何やってるんだ。
 ともかく第一回目の委員長は、GDGDな運営にも関わらず、出演者と参加者のみなさんのおかげもあり、具体的に何が起こったかはほとんど覚えていないが、圧倒的な熱量を伴ってなんだか凄いことが起こったという記憶は強烈に刻み込まれるイベントとなった。夜羽音さんとの関わりは、かように最初から尻ぬぐいだったが、この後、20年の付き合いが始まる。

 それまでにも夜羽音さんの作品は読んでいたし、ちらほら噂は聞いていてキャラクターについてはある程度知っていたつもりではあったが、まあ、実際に付き合ってみると、実に面倒くさい人だった。どれだけ尻ぬぐいをしたことか。特に面倒だったのが、時間と金と酒と女性にだらしないところだった。遅刻の常習には、慣れるしかない。貸した五万円は、結局返ってこなかった。まあそれは個人的な範囲でどうにでも処理できるけれども、女性にだらしなかったことについてはかばい立てのしようがない。「無頼派」と言えば聞こえはいいけれども、周りは大変だ。縁を切る人が続出するのも無理はない。私も、何度も窘めたり、忠告したりした。しかしいちばん困っていたのはおそらく本人で、ADHDの診断が出た後はやたらと向精神薬に詳しくなっていた。自分の感情をコントロールできていないことは自覚していたのだろう。
 そういう面倒な人ではあったが、完全に関係を切ろうとは思わなかった。単に面倒なだけではなく、一方で不思議なカリスマがある人でもあった。というか、代わりが効かない特異な人間であることは、間違いがない。こんな人は、他にいない。面倒な尻ぬぐいをしつつも、20年にわたって途切れず交流を保ったのは、間違いなく、話をするのが楽しかったからだ。他の人とは絶対にできないような話が、夜羽音さんとはできた。私が属するアカデミックな教養とは異なる、どこで仕入れてくるのか分からない得体の知れない知識と教養を、彼は不思議と大量に持っていた。また、頭の回転が速い。いくら話しても、ネタが尽きることはなく、いつも時間が足りなくなった。マンガや眼鏡の話は当然するとして、いつも最新のオタク事情によくついていっているなと感心したものだが、他によく覚えているのは、アイヌの話、平将門の話、関東大震災後の話、雑賀衆の話、東日本大震災支援の話、といったところで、こう思い返してみれば、それは常に「弱者」の立場からの具体的な話だった。最後はいつも、マジョリティから見捨てられる弱者に寄り添う話になっていた。しかも抽象的な理想論ではなく、具体的なエピソードに基づいた、リアルな話ばかりだった。そしてただ単に可愛そうという同情に留まるのではなく、「どっこいそれでも生きている」という逞しさを伴った話ばかりだった。それはおそらくマンガ家という職業柄、抽象的な理想論や同情論で終わることを許さず、一人のキャラクターの生き様を具体的なエピソードで語ることを信条としていたのだろう。この、弱者に寄り添う具体的な話が、実におもしろかった。他の人に代えることはできない、彼独特の価値観と世界観だった。だから夜羽音さんは「左翼」を自称するけれども、常に一人の具体的なキャラクターの生き様に立脚して表現を試みるので、左翼が陥りがちな抽象的な教条主義に嵌まることが少ない。twitter等でいわゆるリベラル層に噛みついていたのも、物事を教条主義的に考えるのではなく、現実のキャラクターから世界を見ていたからなのだろう。だから共産「主義」ではなく、共産「趣味」と自称したのだろうが。こう書いてきて、本当に惜しい人を亡くしたという実感が、だんだん湧いてきた。悲しい。

 夜羽音さんとの絡みで、いちばん印象に残っているのは、一緒に福井の墓参りをした時のことだ。いま思い返しても、奇跡的にも訳の分からない時間だった。まずそもそも福井に縁ができたというのも不思議な話で、発端は「めがねの聖地・鯖江」との繋がりを構築しようという「委員長」絡みの企てから始まったのだった。夜羽音さんが委員長で「めがねの聖地・鯖江!」と叫びまくった結果、私が金を出して、夜羽音さんが鯖江に行って人脈構築を目指すという、今から考えれば無茶なミッションが立ち上がり、そして夜羽音さんは見事に成功させてきた。「めがねの聖地・鯖江!」と唱え続けた彼の功績は、もっと評価されてよい。慎重に根回しを積んでいくタイプの人間よりも無鉄砲な行動力を持つ人間のほうが成果を挙げるだろうという私の見込みは結果的には間違っていなかったのだが、後で報告を聞いて冷や汗が出た。成果が出たから良かったものの、無鉄砲にも程があるだろう。アロハシャツにサンダル履きで商工会議所に乗り込むか。ともかくその成果もあって鯖江に人脈ができ、その縁で何度も夜羽音さんと鯖江に行くことになった。墓参りは2014年の12月。もう8年も前のことになるのか。
 福井に大雪が降った翌日の2014年12月7日、坂野元専務の御厚意で県内を案内してもらいつつ、夜羽音さんの先祖の墓探しが始まった。夜羽音さんは北海道出身なのだが、ルーツを辿ると、満州からの復員に絡んで福井に原点があり、先祖代々の墓も福井にあるという。で、ものすごくおぼろげな記憶を頼りに、現地の人に聞き込みもしながら墓を探すわけだが、個人的には「こんな薄っぺらい情報だけでは見つからないだろう」と思っていた。が、最終的に、福井県丹生郡越前町梅浦にある夜羽音さんの曾祖父・山本伝吉墓にたどり着いたのだった。いや、ちょっとね、最初は何が起こったのかわからなかったけれども、これが「無鉄砲な行動力」が引き寄せる結果かと、夜羽音さんが煙草で線香に火をつけている光景を見ながら、じわじわ来ましたよ。この言いしれぬ感動なのかなんなのか分からないファミリーヒストリーを見せられたのが私と坂野元専務だけというのは、とてももったいないことかもしれない。いや、いいのか。でも、これ、自分が自分に課したミッションをやりきった一人の男のすがすがしい表情じゃないですか。胸に燦然と輝いているのがCUTIE PAIまゆちゃんの名曲THIS IS MEGANEマークですよ。

 そんなこんなで、鯖江に行ったり、大阪田島神社の眼鏡レンズ発祥の地に絵馬を奉納したり、眼鏡温泉に浸かったり、阿佐ヶ谷の怪しいお店に連れて行ってもらったり、私のフォローでは如何ともしがたく破綻したり、思い出は尽きないわけだけれども、それでも私は夜羽音さんの偏った一面しか見ていないのだろう。私は夜羽音さんの眼鏡活動にだけ関わって、特に政治的な活動や言動には意識的に距離を取っていたので、いろいろ知らないことが多いはずだ。私に分かるのは、夜羽音さんの眼鏡愛が本物だったということくらいだ。

 つくづく勿体ないのは、最後まで「描く描く詐欺」で終わってしまった作品たちのことだ。鯖江で見せてもらった「メガ秘書」のネーム、どうなったんだろうか。他にも酒の席では、「こんなマンガが描きたい」という構想をたくさん聞いた。どれもこれも、夜羽音さんにしか描けないような、オリジナリティに溢れる、替えの効かない作品になるはずだった。もう二度と見られない。自分が描きたかった作品を形にできずに世を去るとき、悔いというものは、どれくらい残るのだろうか。私は、夜羽音さんと会ったときは、必ず最後に「マンガ楽しみにしていますよ」と言ってから別れるようにしていた。意識的に言っていた。楽しみにしている読者が一人でもいることで、マンガを描くモチベーションが上がればいいなと思っていた。本人も、もがいて、苦しんで、頑張っていたと思う。でも結局、形にならなかった作品たちが、未練としてたくさん残ることになってしまった。twitterに費やした時間をマンガ執筆にあてていたら……と言ったところで仕方がない。それが彼の精一杯のサバイバル手段だったということなのだろうから。
 ネット上では毀誉褒貶相乱れる奇天烈な人物にされている夜羽音さんで、実際に奇天烈な人で多くの人に迷惑と面倒をかけていたのも確かだし、私自身も尻ぬぐいをたくさんしてきたわけだが、20年ほどの付き合いの中で、本人が苦しんでいた様子を時折間近で見た身としては、本当に勿体ない、残念だという気持ちで一杯だ。しみじみ、残念だ。貸したまま返ってこないのは五万円だけでなく、いろんなものをたくさん貸したまま逝かれてしまった気分だ。とても悲しい。もうこうなってしまってはご冥福を祈るしかないのではあるが、いやまあ、考えようによっては、自由にやりたい放題やって逝ったと言えるのかもしれない。いい加減なところも醜いところもたくさんあって、おそらく世間一般的に言えばダメ人間の部類に入るのだろうけれども、でも一方で説明しがたいカリスマと意味不明な行動力があって、得体の知れない存在感があった。なんだかんだで、結局はたぶん、夜羽音さんと絡むのは、楽しかった。
 さようならの後、もう「マンガ楽しみにしていますよ」と言えないのが無性に悲しいけれども。ご冥福をお祈りします。