【要約と感想】鈴木宣明『ローマ教皇史』

【要約】ローマ教皇2000年の歴史を、使徒ペトロを初代として、現代まで辿りました。

【感想】一般的な世界史の大半は、フランスとかドイツとか国民国家を単位として記述するため、ローマ教皇はその時々に脇役として登場してくるに過ぎない。たとえば「カール戴冠」や「カノッサの屈辱」などのエピソードで、何の脈絡もなくいきなりローマ教皇が登場して、「そういえば、いたんだ」って思い出すことになる。が、もちろんそれは国民国家を単位として歴史を見ているからそういう印象になるだけであって、ローマ教皇の方にも文脈があるに決まっているのだった。逆に、ローマ教皇の立場からヨーロッパの歴史を眺めることで、国民国家という単位の射程の短さが明瞭に見えてきたりする。
 しかしまあ、追放されたり、幽閉されたり、連れ去られたり、無視されたり、破門されたり、毒を盛られたり、暗殺されたり、何度も分裂したりして、ローマ教皇も大変だ。
 で、今後西洋史の勉強を進める上で注意しておくべき論点が浮き彫りになった気がするので、以下にメモしておく。著者の主張ではなく、あくまでも私が疑問に感じたことである。

【要検討事項】使徒ペトロ
 現代に至っては、ローマ教皇の権威は使徒ペトロに由来するというのが当たり前のように言われたりするけれども、実はその主張そのものが歴史的に形成されてきた神学の産物だということは押さえておく必要がある。実際、仮にペトロの権威を認めるとしても、それがカトリック教会及び歴代教皇に引き継がれる根拠については別に考慮する必要がある。ひょっとしたら、ないかもしれない。で、この根拠が崩れるとローマ・カトリックの権威が土台から崩れる。ので、カトリックがこの論点で譲るわけがない。本書でも、古代教皇のところではもっぱらこの論点が検討される。

【要検討事項】西ローマ帝国は滅亡したのか
 そして古代ローマ教皇はコンスタンティノープルの東方教会との主導権争いに明け暮れるわけだが、それはいわゆる西ローマ帝国滅亡(476年)をどう評価するかという話にも繋がってくる。いわゆる「西ローマ帝国滅亡」という考え方は、実はカトリック教会にとって都合の良い考え方に過ぎず、実態を表わしているわけではないと疑ってもよい。というのは、いわゆる西ローマ帝国滅亡以降も、ローマ教会はずっとずっと長い長い期間、東ローマ帝国からの関与と圧力を受け続けるからだ。東ローマ帝国の立場から言えば、そもそも西ローマ帝国は滅びてなんかおらず、というか最初からそもそも西ローマ帝国と東ローマ帝国が分離していることもなく、ローマ帝国はコンスタンティノープルに健在であって、だとすればローマ教皇はコンスタンティノープル宮廷であるところのローマ帝国に当然従う義務があるだろう、という話になる。しかしローマ教皇側としてはビザンツ帝国に従いたくないので、「私たちが従っていた西ローマ帝国は滅亡しました、だからもう教会は自由。ビザンツ帝国に従う理由はありません。」と主張して対立を煽ることになる。というわけで、「476年の西ローマ帝国滅亡」という事案そのものが、利害関係者によって都合良く拡大解釈されたものかもしれない、と疑ってもよい。
 たとえば神学論争についても、純粋にキリスト教神学として極められたというよりは、政治的・現実的動機によってことさら相違を強調されたと勘ぐることもできる。特にエフェソス公会議やカルケドン公会議等で問題になった「三位一体」とか「キリスト単性説」とか、大局的に見れば心底どうでもいいことで、コンスタンティノープル総主教ネストリウスが言いがかりを付けられただけのようにも見える。率直に言って、「三位一体」にこだわる理由や意義は論理的にはさっぱり分からないが、政治的な動機で騒ぎたてたと勘ぐれば極めてすっきりとよく分かる。
 となると、いわゆる西ローマ帝国滅亡後に発生した「聖画像崇拝」の問題にしても、ローマ・カトリックが聖画像崇拝を認めるのは、神学的な根拠に基づくものではなく、ことさら東方教会との違いを際立たせて、ビザンツから距離を取ってやろうという政治的意図から出たものではないか、と勘ぐることもできてしまう。
 いずれにせよ、ビザンツ(東ローマ)帝国の存在を視野に入れて「そもそもローマ帝国は滅亡していない」という主張を受け容れ、そして事実としてローマ教皇がビザンツ帝国からの影響と圧力を受けていたことに配慮することで、ヨーロッパ中心史観が描く物語とは別の側面に光が当たることは間違いないのだった。

【要検討事項】カール戴冠の意味
 西暦756年の「ピピンの寄進」や西暦800の「カールの戴冠」は高校世界史でも扱われる題材で、現在の西ヨーロッパ世界成立の原点とされているが、ビザンツ帝国が絡んでくると急にきな臭い話になる。そもそもローマ教皇がフランク国王カールに「西ローマ皇帝」の称号を授けるためには、前提として、西ローマ帝国が滅んでいなければならない。西ローマ帝国が滅んでいなければ、カールに称号を授けることはできない。ローマ教皇としては、是が非でも西ローマ帝国が滅んだことになっていなければならない。そこで邪魔になるのがビザンツ帝国=東ローマ帝国だ。ビザンツが「ローマ帝国は滅んでいない」と言い張ったら、ローマ教皇はカールにローマ皇帝の称号を与えることなどできない。実際、東ローマ帝国はカール戴冠の実効性を認めない。ローマ教皇の方としては、現実的にはただただビザンツ帝国を完全に見限ってフランク王国=ゲルマン人に乗り換えただけなのだが、その行為を正当化するためには、「西ローマ帝国は実は滅亡していたんだよ」という歴史を創作しておく必要が出てくる。となると、カール戴冠によって「西ローマ帝国が復活した」と言っている人もいるが、極めて怪しい話になってくる。そもそも滅亡していなければ、復活のしようがない。逆に言えば、復活したと言い張ることで、滅亡していたことにできる。カール戴冠は、本当に「西ローマ帝国の復活」としていいのか。ローマ教皇に、そんな権能が本当にあったと考えていいのか。というか、仮に権能がなかったとしても、後に何も事情を知らない人たちに対して「西ローマ帝国の復活」と言い張り続けることで、ローマ教皇に権能があったことにできてしまうのだ。こういうふうに既成事実の神話化を試みているのはローマ・カトリックだけではないのだが、ローマ教皇はこの技術が実に巧みだ。とういか、その知恵だけで生き抜いてきたようにも見えてしまう。

【要検討事項】神聖ローマ皇帝位の行方
 高校世界史のレベルでは、西ローマ皇帝の称号はその後ドイツ国王との関係で云々されることになるのだが、それも怪しい話だ。ローマ教皇は、カール戴冠の後、特に一貫してドイツ国王(東フランク王)に皇帝位を与え続けたわけではない。実は西フランクに浮気していたりもするし、10世紀初頭には形骸化して消滅している。
 神聖ローマ帝国皇帝の称号がドイツ国王と結びつくのは、西暦962年のオットー1世戴冠からのことだ。逆に言えば、ここでもまた歴史が創作されたと考えて良い。カール大帝の戴冠とオットー1世の戴冠には、直接的な連続性は認められない。それを連続していると理解できるのは、オットー1世とローマ教皇が歴史を創作したからに過ぎない。しかし実はそれすらも後世の創作に過ぎないのだろう。オットー1世に皇帝の称号を与えたローマ教皇ヨハネス12世は、物理的支配の後ろ盾を得るために皇帝の称号を形式的に利用しただけであって、それを理念の次元で「ローマ帝国の継承」などと考えていたわけはなかろう。またオットーはオットーで単にローマ教皇を利用しようとしただけで、実際に皇帝の称号を得てからは、ローマ教皇ヨハネス12世を殺人罪や汚聖罪を理由に退位させている。オットーがローマ皇帝の称号を得たのは、どうもローマ教皇ヨハネス12世が軽率で迂闊だったからに過ぎず、カール戴冠とオットー戴冠を理念的に繋げようとするのは、後の時代の創作に過ぎないだろう。
 そのあたり、ナポレオンの戴冠については神話化を許容できないほど生々しくも野蛮な剥き出しの実力主義だったことを記憶しているわけだが、そういうふうに生々しいのは事情が詳細に知られている(おそらく印刷術の効果)からであって、実際にはオットー1世の戴冠にも似たり寄ったりの事情があったのをみんな忘れてしまった(おそらく印刷術がなかったため)だけなのだろう。

【要検討事項】イタリア・ローカリズム
 現代ではローマ教皇の権威は全世界に普遍的であると見なされているのだが、それは極めて近年の話で、中世からルネサンスあたりまではそうとうローカルな政治権力として機能していたことをイメージしておく必要があるように思う。たとえばマキアヴェッリ『君主論』ではローマ教皇アレクサンデル6世(およびその息子)が大活躍するのだが、それは西ヨーロッパに普遍的な宗教的権威としてではなく、ただただイタリアの現実政治に影響を及ぼすローカルな権力としてだ。
 14世紀のフランス王国によるアヴィニョン捕囚も、その文脈で理解しておく必要がある。フランス王国は宗教的に何かしようとしてローマ教皇を捕えたのではなく、ただただイタリア(特にナポリとシチリア)に影響力を行使するべく、ローカル権力であったローマ教皇を拉致していただけなのだろう。実際、ローマ教皇が捕囚されていたアビニョンは、フランス王家の支配地ではなく、ナポリとシチリアに極めて大きな関心を抱いていたアンジュー家の所領だった。捕囚直前の13世紀には、アンジュー家のシャルル・ダンジュー(シチリア王)が、ビザンツ帝国を征服して地中海の覇者となることをも夢見ていおり、ローマ教皇もその野望(東ローマ帝国征服)に乗っかっていた。ローマ教皇としては、やはり相変わらず東ローマ帝国の存在は目の上のたんこぶのようなものだったのだろう。
 ビザンツ帝国は1453年にイスラム勢力によって滅ぼされるわけだが、ローマ教皇は特に十字軍の発令などをすることもなく、ルネサンス美術にうつつをぬかしてローマ市内の美的整備に力を尽くしている。世界全体の動向などどうでもよく、ローマが美しくなればそれで嬉しいという、ただただローカルな権力になっている。その勢いのまま1517年、いわゆるルターの宗教改革に突入していくわけだが、ローマ教皇に対応する力がなかったのは当然だったかもしれない。とすれば、たとえばイギリスが国教会を打ち立ててローマから離反し、宗教的寛容を唱えたジョン・ロックが「カトリックと無神論者は例外だ」と主張することになる気持ちにも想像が及びそうだ。
 そんなカトリックが、いつの間にか「普遍」を装っているのはどういうことか、そこに至るまでにどういう歴史の創作があったのかは、しっかり把握しておく必要がある。案外、日本人だけが勘違いしていて、ヨーロッパ現地の人はそんなふうに思っていないかもしれない(たとえば日本人が神社やお寺に対して抱いている程度の感覚)ということも視野に入れておく必要がある。

鈴木宣明『ローマ教皇史』ちくま学芸文庫、2019年<1980年