【要約と感想】ボッカッチョ『デカメロン』

【要約】Wooooわかちこわかちこ!
 ペストの大流行を避けてフィレンツェ郊外に逃れた男3人と女7人が、無聊の慰めのため、お互いに物語を語り合います。一人一話で十日間、合計百話が語られます。百話物語の舞台となるのは同時代(14世紀)のヨーロッパ(一部イスラム含む)全体で、主人公になるのは貴族だったり商人だったり農民だったり貧しい画工だったりしますが、14世紀当時にまさに生活していた人々です。話の内容は100話様々ではありますが、基本的に男女の恋愛が絡んだ話で、多くが肉体関係を含みます。しかも純愛はほとんど扱われず、既婚男女の不倫関係を扱う話が極めて多い上に、詐欺やペテンに満ちあふれ、3Pや4Pもあってやりたい放題な上、ウンコまみれになるとか、教会の僧侶や修道院の尼をバカにするようなエピソードも多く、自分の性的欲望に忠実に従って大胆かつ狡猾(しかし迂闊)に振る舞う有様に対して、既に当時から作者に対する倫理的批判が喧しかったようで、著書内でたくさん言い訳をしています。わかちこ!

【感想】艶笑譚の類いだとは噂に聞いていたものの、聞きしに勝るというのはこういうことかもしれない。まあ、酷い酷い。細部に至るまで下品で酷い。しかも作者がそれを自覚して意図的にやっていることも分かって、酷さにも拍車がかかるのであった(←褒め言葉)。まあこれが恋愛先進国イタリアが誇る伝統ってやつよ(←偏見)。さらに訳者の博識とこだわりが詰まった名解説と訳注も相まって、非常に楽しく読めるのであった。
 気になるのは、出てくる女性がみな絶世の美人なのはともかくとして、ほぼほぼ人妻であるところ。単に著者が人妻好きなのか、中世騎士物語で主君の奥方に恋愛的中世を誓う伝統を引き継いでいるのか、それとも当時の一般的な世相を反映したものなのか、ともかく処女崇拝的なものが一切出てこないところは中世の特徴かもしれない。いわゆる処女崇拝的なセンスが近代以降に顕著になったことは各所で指摘されているわけだが(ちなみに古代にはある)、中世にそういうセンスがなかった証拠の一つにはなるのかもしれない。
(※2022.12.22追記)本書に影響を受けて約半世紀後に現れたチョーサー『カンタベリー物語』では、処女崇拝的なエピソードを数多く見ることができる。だから処女崇拝的なセンスが中世になかったわけではない。これはもう間違いない。だから問題は時代ではなく、人妻好きなのがボッカッチョ個人の性癖なのか、それともフィレンツェ全体の傾向に関わっているのか、あるいは階級的な傾向を示しているのか、ということになる。

【研究のための備忘録】識字率
 で、教育史的な関心からは、こういう艶笑譚が可能になった歴史的・社会的背景が気にかかるわけだ。常識的には、中世ヨーロッパではキリスト教が世の中を厳粛に支配しており、破廉恥な物語が入りこむ余地はなさそうに思える。逆に言えば、デカメロンを可能にした14世紀のフィレンツェという場所が歴史的に特別な意味を持っていたということなのだろう。羊毛産業の隆盛を背景に金融業も勃興し(その様子は本作中でも描かれる)、従来の支配者階級に代わって商人の存在感が大きくなり(本作中でも商人が活き活きと活躍する)、教会の聖職者に対する容赦のない批判を可能にするような言論の自由が保証され、共和政を謳歌する社会から、本作のような問題作が生じてくる。中世の封建的生産関係にあった他地域では、こんな本が許されるとは考えられない。
 そして問題は、デカメロンが印刷術発明前の作品というところだ。印刷できないのだから、出回るとしたらとうぜん写本の形になる。しかし当時は、聖書を始めとするキリスト教関係の書物(時祷書など)が、しかもラテン語写本によって流通していたに過ぎない。このデカメロンが現地語(イタリア語トスカーナ方言)で書かれ、しかも写本として流通したというのは、そうとう驚異的なことだ。もちろんこれを社会的・経済的に支えるには、高い識字率が必須条件になる。金融業で栄え、ヨーロッパ中に支店を持っていたフィレンツェだからこそ、印刷術発明前にあって高い識字率を実現することができたのだろう。本書にも文字を習う子どもの様子が描かれていて、興味深い。

「先生は林檎の上にABCを書いて字を覚えようとする豚児どもと違って、瓜の上に書いて覚えました。」第8日第9話(下巻p.150)

 子どもたちが字を覚える時に林檎をつかっているということだが、それはもちろん「紙」がないからだ。(ちなみに「瓜」というのは、相手をバカにしている表現らしい)。ともかく、特に才能のない子どもも文字を学んでいるだろうことが伺える描写になっている。印刷術発明以降であれば文字を習う子どもの姿は日常的な光景になるが、印刷術発明以前であることを考えると、ヨーロッパ全体でこういう教育を行なっていたのはフィレンツェ(あるいはイタリア都市国家)くらいだったのではないか。この高い文化的水準が、いわゆるルネサンス(あるいは人文主義)を下支えする条件になっていたのは間違いないだろう。
 日本の江戸時代においても、寺子屋が普及して識字率が向上するのは1750年あたりのことになるが、やはり江戸に出荷する商品作物の栽培の隆盛を背景に金融・流通が発展したことが大きく影響している。また訳者も解説で触れてているが、商人であった井原西鶴の活動や作品内容との類似は、地中海貿易流通の拠点だったフィレンツェと瀬戸内海流通の拠点だった大阪の類似も相まって、興味深いところだ。
 で、ボッカッチョや井原西鶴のような印刷術発明前の商人階級を担い手とした識字文化がかつてあり、仮にそれをルネサンスと呼んでみたとして、現代の我々が目にしているのは印刷術を前提に国民すべてを巻き込んだ識字文化なわけだが、それはどの程度ルネサンスと連続していると考えていいのか。個人的には、本質的なところから大きく異なっているように見えている。そういう観点から言えば、確かにデカメロンには様々に近代的(あるいはルネサンス的)な要素が仄めかされているものの、本質的には中世に属するように思える。それは、14世紀フィレンツェ・ルネサンスそのものが中世的かどうか、近代とどの程度連続してくるのか、という問題にもなる。デカメロンは、そういうことを具体的に考えるための素材として極めて重要な位置を占めている。そんなわけで、ただの艶笑譚として笑っている場合ではないのだ。わかちこ!

ボッカッチョ『デカメロン』上、平川祐弘訳、2017年<2012年
ボッカッチョ『デカメロン』中、平川祐弘訳、2017年<2012年
ボッカッチョ『デカメロン』下、平川祐弘訳、2017年<2012年