【要約と感想】聖トマス『形而上学叙説―有と本質とに就いて―』

【要約】「有」と「本質」について、それぞれ何を意味するか、現実においてはどのように見いだされるか、論理学的にどのような関係にあるか等について、基本的に理解しておかなければ、後々ひどい誤りを犯すことになります。とういことで、アリストテレスの議論に沿って考えていくと、現実の「有」および「本質」について理解するためには、「形相/実質」とか「類/種差/種/個体」という概念の内容と関係を丁寧に把握しておく必要があります。そうすると、「有」と「本質」とは、それぞれ異なっています。
 ところで本当の問題は、「神」や「天使」や「魂」など、質量をもたない英知体の「有」と「本質」をどう考えるかで、これについてはアリストテレスの預かり知らないところでした。前半で明らかになった定義を踏まえて考えると、神の場合は「本質」こそが「有」であり、天使のような英知体の場合は「本質」と「有」は異なっているが質量を持たないために一つの種には一つの個体しか属さず、一般的な存在者については形相によっても質量によっても「本質」が変化するために一つの種のなかに様々な個体が生じることになります。
 こうやって考察を重ねることで、「有」と「本質」の意味や関係だけでなく、論理的普遍概念がどのように見いだされるかも明らかになりました。

【感想】本訳書の初版は1935年とクレジットされている。古い。ちなみに二二六事件の前年だ。故に漢字が舊字體のうえに、紙版もつぶれていて、読みにくいことこの上ない。旧字体を読むトレーニングを経た人でないと、とりつくことさえできないだろう。そんなときに、今はインターネットで現代語訳されたものを読むことができる。便利な時代になったものだ。
▼存在者と本質について(Wikisource)
 ちなみに本書が「有」と呼んでいる鍵概念は、現代語訳では「存在者」となっている。

 さて、そんなわけで90年近く前の翻訳で、というか原著そのものは800年近く前に書かれているわけだが、内容そのものは驚くほど古くなっていない、ように個人的には思う。それはおそらく人間の認識に関わる普遍的で本質的なテーマを扱っているからなのだろう。またあるいは現代西洋哲学を理解する上でも決定的に重要な鍵を握っている諸概念について根底から考えているからでもあるだろう。またあるいはトマスを批判するオッカムの思想(ひいては普遍論争)を理解する上でも、本書の見解は決定的な補助線となるはずだ。そしてそれはもちろん本書の底本となっているアリストテレス『形而上学』の射程距離が極めて長いということでもある。本書が扱っているテーマに関しては、底本のほうがより深く、広い視野で扱っているように、個人的には思う。本書の持ち味は、アリストテレスの論理をカトリックの教義へと発展的に接続したところにある。トマスの仕事が「アリストテレスに洗礼を施す」と言われいるとおりの内容のように思う。

 本書が示す重要な帰結はいろいろあるが、個人的に気になっているのは「有と本質は異なる(ただし神だけは除く)」という結論だ。これは日本語で一般化すると、「現実と現実性は異なる」とか「男性と男性性は異なる」とか「個と個性は異なる」ということ(前者が有あるいは存在者で後者が本質)で、文法的には「述語されるかどうか」が決定的に異なる。具体的には、「私は男性だ」とは言えるが「私は男性性だ」とは言えない、という違いになって現れる。これ自体はさほど難しくないように思えるものの、問題は「ただし神だけは除く」という結論だ。
 トマスによれば、神だけは「本質が有」であるために、有と本質は同じものだ。この論点がゆくゆくは神の存在証明等に結びついてくるところで、カトリック思想を論理的に理解しようと思ったら、まさにこの「神の本質は有」というテーゼにどう対峙するかが決定的なポイントになってくる。真剣に対応しようと思えば、もうどうしても「有」や「本質」という概念について本質的に考えざるを得ない。そのために本書は極めて大きな示唆を与えてくれる。
 ちなみにトマスのすぐ後に現れる神秘主義者エックハルトは「神と神性は異なる」と断言してしまっている。明らかにトマスとは異なる神観を示している。またその一方で、エックハルトと同時期に異端審問を受けるオッカムは、「本質」という概念そのものを否定し、さらに「本質」と「有」の区別はないとし、トマスの論理に真っ向から反対する。トマスの「有と本質の区別(ただし神以外)」に関する学説は、神秘主義者と現実主義者から挟み撃ちにされることになる。このあたりの中世スコラ学のダイナミックな展開は、「近代」に向けての胎動をどう考えるかにも関わってきて、なかなか大変なところである。

聖トマス『形而上学叙説―有と本質とに就いて―』高桑純夫訳、岩波文庫、1935年