【要約】実際に教育委員会で教育行政に関わった立場から、日本の公教育の問題点を炙り出し、よりよい公教育を実現するための理念と哲学を踏まえて、実際に東京都杉並区で取り組んだ教育行財政改革の具体的な方策を紹介し、その狙いと成果を明らかにしています。
これまでの教育とこれからの教育の一番の違いは、「みな同じ」から「みな違う」です。そして違うことによって孤立するのではなく(新自由主義の誤り)、協働に向かうことです。その理念を実現するために、単に学校単位や先生個人に責任を押しつけるのではなく、教育委員会にできることはたくさんあります。地域と一体になった組織作り(コミュニティ・スクール)、教育課程編成の個別化、理念を実現するための学校建築、教育委員会そのものの官僚制からの脱却、目的に即したテストの設計と活用など、現場の教師たちの豊かな実践を実現するための手立てが豊富に提示されています。
つまり、教育は変えられます。
【感想】良い本だった。
実際に自治体として取り組んだ実践を踏まえて、地に足のついた議論が展開されているのが、一番の特徴だろう。学者が頭で考えただけの教育論ではない(それが悪いというわけではなく、実際に苫野一徳氏の教育論が実践を支える確かな柱になっている)。公教育でここまでできるのだという参照点にもなる。教育関係者にとっては大きな刺激になるのではないだろうか。
【今後の個人的な研究のための備忘録】
教育課程の個別化に関しては、他人事ではなく、いろいろ気になるところだ。
なかなか凄いところに突っ込んでいる文章だ。教員養成課程に関わる立場としては忸怩たる思いを抱いているところなのだが、現在の教員養成は「授業ができる」ようなプロを養成するところだとは思われていても、「教育課程を編成できる」ようなプロを養成するところだとは認識されていない。まず、教育課程を履修する学生自体が、そう思っていない。授業さえできれば十分だと思い込んでいる。私個人は「教育課程論」という授業を抱えているので、その半期2単位で、なんとか学生諸君に「教員とは、単に授業ができる人ではなく、教育課程編成においても優れた見識を持つ必要がある」ということを伝えようとしている。が、キョトンとされて終わりだ。学生だけの問題ではない。日本社会全体が課題を共有していない。日本社会は、教員を単に「授業をする人」だと思い込んでいる。その日本社会全体の偏見に立ち向かうには、半期2単位というのは、なかなか短い時間である。まあ、精一杯頑張っているつもりではある。私にできることは、今のところ、学生諸君に教育課程編成の力をつけて現場に送り出すべく、最善を尽くすことしかない。筆者の言う「教育課程の個別化」を支えるのは、最終的には子どもたちと直接向きあっている教員だ。個々の教員が「教育課程を編成する力」を持たなければ、「教育課程の個別化」は悲惨な結果に終わる。「総合的な学習の時間」が理想通りに機能しなかったのは、各学校に教育課程編成の力がなかったせいだ。そう想像できるから、教育課程編成の権限がなかなか現場に降りてこない。多少は規制緩和されているし、その動きは加速しているようにも見えるが、果たして文部科学省が一番重要なハンドルを手放して教育現場に譲り渡すかどうか。たとえば具体的には教科書(編成と採択)の問題は極めて大きい。
というように、「教育課程の個別化」だけで様々に複雑な論点が次々と沸き上がってくるわけだが、本書は全編がそういう論争的なキーワードに充ちている。教育委員会制度そのものの改革(いわゆる準公選制に近い)や、学力テストの利活用などに対しては、私個人としても言いたいことが次々と浮かんでくる。
ともかく、そういうふうに論争的に読まれただけでも、本書のタイトル「教育は変えられる」に一歩近づいているということなのかもしれない。