【要約と感想】坂部恵『ヨーロッパ精神史入門―カロリング・ルネサンスの残光』

【要約】西洋哲学史の時代区分について、教科書的には15世紀ルネサンスを大きな区切りとしていますが、実際には一般的に「中世」とされている8世紀カロリング期の知的営みが決定的にヨーロッパ精神の土台を作っています。ルネサンス期になされた仕事は、中世の知的営為のオマケのようなもので、取るに足りません。
 中世哲学は表面的には「個/普遍」の関係性(あるいは非関係性)を扱っているように見えながら、実際に問うているのはそんなレベルのものではなく、「個」も「普遍」も同時に呑み込んで、「語り得るもの/語り得ないもの」の狭間から問いを立ち上げています。
 ルネサンス以後のいわゆる「近代」は、オッカムの伝統を引き継いで「語り得ないもの」を削ぎ落として「個」の概念を抽出し、基本的人権とか民主主義という形に結実して来ました。それはそれで尊い仕事ではあります。しかし近代理性が合理的に削ぎ落とした中世の「語り得ないもの」の伝統は、現代思想の中で甦ることになります。近代が反理性・反合理的な「神秘主義」として排斥してきた言葉の中に、実は決定的に重要な知的営為が込められていたのでした。

【感想】2021年現在においては、大学で人文科学を学べば「カロリング・ルネサンス」という言葉に触れる機会がふつうに用意されているわけだが、30年前にはまだまだ新鮮な考え方だっただろう。近代哲学(デカルト・ロック・カント)を脱構築しようとする現代思想(フーコー・アドルノ・レヴィ=ストロース)の隆盛の中で、思想史的には改めて中世の知的営為に注目が集まることになった。ポストモダンが「近代」を脱構築するために、改めて「中世」を掘り起こす。まあ形式的には、ルネサンスが中世キリスト教・封建制を脱構築するために「古代」を掘り返したり、明治維新が中近世武家政権・封建制を脱構築するために「古代」を掘り返すのと同じような試みではある。
 で、本書が脱構築しようと試みている対象は、私が読解した限りでは、近代特有の「個/普遍」という問題の立て方そのものだ。近代は思想的にも文化的にも政治的にも「個」の概念を土台に据えることによって成立している。近代の思想・文化・政治を理解するために、「個」の概念は決定的に重要だ。しかし本書は、その「個」の概念を中心とする問いの立て方そのものを脱臼させようと試みる。本当の問題は「個/普遍」の二項対立にあるのではないらしい。
 じゃあ何が本当の問題かというと、「定まったもの/定まらないもの」「境界のあるもの/境界のないもの」「閉じた系/開いた系」「語れるもの/語り得ないもの」「個としての個/無限系列としての個」「理性的言語/詩的言語」の相克だ。「個/普遍」の境界線は、この対決の中に溶け込んでいく。そして近代はこの二項対立の前者を切り取り、後者を反理性的な「神秘主義」と断じて切り落とすことによって、成り立つ。「定まって閉じた語り得る個としての個を理性的に語る」という観点から「個/普遍」の問題に決着をつける。「個/普遍」の問題は、思考のフィールドそのものをダウンサイジングしたことによって「理性的」に解決することが可能となったのだ。
 が、近代によって合理的に切り落とされた「語り得ないもの」の領域が、近代的な「個」の概念に異議を申し立てるポストモダンの流れの中で、再び呼び起こされ、甦ることとなった。ポストモダンは問いの立て方そのものを再び転換することを試みるわけだが、それこそが本書に見るような8世紀カロリング期を参照しようとする動機となる。
 で、それに何か意味があるかという話になると、具体的な問題に対して新たな観点から言葉を与えられるかどうかが勝負になる。そしてそういう意味で言えば、眼鏡論的には大いに「アリ」だ。

【この議論はメガネ論にも使える】
 私の個人的な興味としては、本書の関心は「1/0あるいは∞」の公理系の問題と重なる。近代的な「個/普遍」とは「1」の相で捉えるべき概念であり、その観点は古代のプラトンやアリストテレスとも響き合う。近代(そして古典古代)とは「自己同一」つまり「1」の公理系で成り立っている。しかし東洋の影響を蒙るヘレニズム思想から、「0」あるいは「∞」の思想が興隆し、これが本書によればカロリング・ルネサンスで一つの完成に至り、中世の知的営為(いわゆる神秘主義など)を導いていく。これは「非-自己同一」の哲学であり「否定」の神学であり「無」の公理系だ。
 そしてその知的営為は、眼鏡を考える上でも極めて大きな示唆を与える。一般的には眼鏡を考える際にも「1」の公理系、つまり「個/普遍」の関係が決定的に重要な問題であると認識されがちである。しかし実は、本当の問題は、「0」あるいは「∞」の公理系でないと立ち上がってこないのかもしれないわけだ。「1+1=1」という、いわば「三位一体」の論理を包含する公理系でなければ、メガネの真の姿は浮上してこないかもしれない。そして確かに、「∞」の記号をじっと見ていると、まさに眼鏡に見えてくるのであった。

坂部恵『ヨーロッパ精神史入門―カロリング・ルネサンスの残光』岩波書店、2012年<1997年