【要約と感想】國方栄二『ギリシア・ローマ ストア派の哲人たち』

【要約】西洋哲学史のうち、特に紀元前4世紀(ヘレニズム期)から紀元2世紀(ローマ帝政前期)までに活躍した、ストア派の哲学者たちの思想を詳説しています。ストア前史としてキュニコス派の樽のディオゲネスから始まって、ストア前期(ゼノンなど)、ストア中期(パナイティオスなど)を経て、後期ストア派のキケロ、セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウスを大きく扱っています。
 ストイックとは、痩せ我慢とか諦念の態度などではなく、強い意志を持って自分の人生を「自由」で「幸福」に生きる姿勢のことです。

【感想】ギリシア時代の哲学(ソクラテス・プラトン・アリストテレス)については入門書も概説書もたくさんあるのだけれど、ヘレニズム期からローマ期の思想状況について扱った本は、がくっと少なくなる傾向にある。そんな状況にあって、さっくり時代状況を概観できて、痒いところにしっかり手が届く、とてもありがたい本なのであった。
 一方で、近年はストア派の思想に脚光が当たっているような印象がある。おそらく、現代日本の時代状況が、2000年前のローマの状況とよく似ている(行き詰まり感という意味で)から、ストア派の考え方に対して需要が生じているのだろう、と思う。プラトンやアリストテレスのような閑暇と観照の哲学ではなく、人生の指針となり行動に反映するような「幸福になるための知恵」に対する需要。
 そんなわけで、ストア派固有の壮大な宇宙論にはあまり注目されず、自分の心をコントロールする知恵と技術に焦点が当たりがちなのだが、本書にもその傾向が見られるような気はする。個人的な関心から言えば、有機体論の系譜に興味があるわけで、そのあたりは食い足りない印象ではあった。まあ、それが別に悪いというわけではない。

【今後の個人的な研究に対する備忘録】
 「人格」に関する記述があった。著者が翻訳したエピクテトス『人生談義』にもほぼ同じ記述があったけれども、やはり微妙な違和感がある。

「「それぞれの人格、状況、年齢に照らして何がふさわしいか、何が適性かを問うならば、たいてい義務が見出されることになる。」キケロ『義務について』(Ⅰ 125)
とある。ここで義務と関連の深い言葉が人格である。ラテン語では人格はペルソナという語で表現される。そして、キケロの『義務について』において独特の人格論を展開しているのがパナイティオスである。」pp.109-110

「ギリシア語で「顔」はプロソーポンと言う。プロソーポンはまた「仮面」の意味をも持ちうる。仮面とは悲劇や喜劇において舞台俳優が着けるものであり、表面的な顔とは違ったもうひとつの顔である。いわば内面の自己を言う。それがその人の「人格」にもなる。人格は英語ではpersonality(パーソナリティ)であるが、これはもともとラテン語のペルソナに由来している。ペルソナはギリシア語のプロソーポンに相当する語で、同様に「顔」や「仮面」の意味を持っている。これがキケロなどを通じて後に近代の人格概念に受け継がれていく。カントの場合、『人倫の形而上学』において展開された人格性(Personlichkeit)の概念が倫理学だけでなく彼の哲学において重要な意味を持つが、このような議論の淵源は中期ストア派のパナイティオスの思想にある。先に述べたように、パナイティオスの書物は失われて現存せず、『義務について』において、特にその第一~第二巻で紹介されているが、ペルソナ論はその第一巻(Ⅰ 107-125)で展開される。
 キケロは言う。まず自然は二つのペルソナを私たち人間に身につけさせた。ひとつは人間が理性を持つことによって得られるすべての人間に共通の人格である。もうひとつは足の速い人もいれば遅い人もあり、腕っぷしの強い人もいれば弱い人もいるように、個人に固有のものとしてある人格である。そして、個々の人格に応じてなすべき行為もまた異なってくる。」p.110
「第三のペルソナは偶然や機会に左右されるものである。たまたま王位に即くことができたとか、富、財産を得たとかいったことで、持つに至るのがこれである。第四のペルソナはそれぞれの選択によって得られたものを言う、哲学に向かう人もいれば、市民法に関わる人もいるし、軍人となる人もいる。以上の四つのペルソナを簡略化して示せば、(一)普遍的、(二)個別的、(三)偶然的、(四)選択的なペルソナがあって、それらが人間の人格を形成すると考えられるわけである。」p.111

 まず違和感を持つのは、ペルソナ=仮面が「表面的な顔とは違ったもうひとつの顔」であるのはいいとししても、すぐさま「いわば内面の自己を言う」と続くところだ。論理的には、順接しない。飛躍がある。常識的に考えれば、仮面はただの「仮」の面に過ぎず、内面は「内」の面として別のところにある、となりそうなものだ。「仮」面を直ちに「内」面に結びつけるのは、理解しがたい。(まあ、このあたりの論理の飛躍には坂部恵の影響が大きいような印象はあるが)
 実際、上記引用した「ペルソナ」という語は、「内面」と理解するのではなく、「社会的役割」と考えた方が落ち着きが良い。「仮面」というものは、「内の面とは全く関係がない、一時的に担わなければならない仮の社会的役割」と考えた方が、論理的にも常識的にも座りがいい。仮面を外したら、もうその社会的役割を担う必要はない。キケロのいう「義務」も、ペルソナを「内面」ではなく「社会的役割」と考えた方がしっくりくる。著者が整理する「(一)普遍的、(二)個別的、(三)偶然的、(四)選択的なペルソナ」も、それを「内面」と理解する理由も必然性もなく、単にそれぞれ「時と状況によって付け替え可能な社会的役割」があると理解するほうが、「仮面=内面とは無関係に付け替え可能な役割」というものの機能ともすんなりと順接する。
 で、こういう内面とはまったく関わりのないただの「ペルソナ=仮面」が、近代になると、カントに代表されるように、極めて重要な意味を担う言葉になる。なんでこうなったのかについてはいろいろな論者が関心を持って追究しているのだが、個人的に共感するのは、八木雄二の見解だったりする。要するに、キリスト教の論理(とくに三位一体の教義)が決定的な仲介者になるという考え方だ。八木の見解(と私の直観)が正しいとすれば、キリスト教の影響を受けていないストア派の「ペルソナ」が近代的な「人格」概念が担うような意味を持つわけがない、ということになるし、実際にテキストに触れてもそうだろうとしか思えないわけだ。
 ただし、だからといってストア派に近代的な人格概念がないかと言われれば、即座にそう決めつけることもない。個人的には「ペルソナ」という言葉以外の部分で、総合的に表明されているように思う。特に「宇宙は有機体として一つ」であり、「人間はその大いなる一の部分」であるという考え方は、近代的な人格概念を理解する上で決定的に重要な背景を為すだろうと思っている。そんなわけでストア派や新プラトン主義の「有機体」に対する考え方には興味津々なのであった。
 まあ、このあたりは、ライフワークとしてゆっくり追究していこう。(と言っているうちに人生が終わるからさっさとやりましょう、というのがストア派の思想だけれども)

國方栄二『ギリシア・ローマ ストア派の哲人たち セネカ、エピクテトス、アルクス・アウレリウス』中央公論新社、2019年