【要約と感想】マルクス・アウレーリウス『自省録』

【要約】私が善き人間であろうとする時、他人の評価は全く関係ありませんし、意味がありません。過去を思い悩んだり、未来に希望をかけたりするのは意味がありませんので、現在与えられた環境と条件の下で精一杯できることをしましょう。宇宙の原理と一体化し、存在の本質を考えれば、やるべきことは自ずと見えてくるはずです。

【感想】文句のつけようのない名著で、長く読み継がれてきたことにも深く納得する。折に触れて読み返したい本だ。
 著者のマルクス・アウレーリウスは、2世紀後半にローマ帝国の皇帝を務めた人物だ。が、本人は皇帝ではなく、哲学者になりたかったようだ。
 本書には、高貴であろうと努力を重ねる魂のもがきが記録されている。地球の重力に肉体を引かれつつも、魂は自由を求めて宇宙を目指す。こういう人が実際にいたんだと思うだけで、私自身もちょっとは謙虚になれる。自分の生き方に対して具体的な人生訓になるかどうかは別として、あるいはこういう生き方や考え方に共感するかどうかも別として、こういう一本筋の通った人生というのがあり得るという「可能性」については、知っておいて損はない気がするのだった。

【個人的な研究のための備忘録】
 著者の思想の根幹はストア哲学で固められている。ストア哲学は、「一」という概念に対する強烈な信仰が土台にある。世界は一つであり、太陽の光は一つであり、普遍的な物質は一つであり、生命は一つであり、理性は一つである。あらゆるものを貫く「一」という見方・考え方こそが「神」という概念を構成する。

【「一」に対する信仰告白】

「自分固有の魂をすべて理性のあるものの魂から切りはなす者は社会から切断された肢のようなものだ、なぜならば魂は一つであるから。」第4巻29章

「宇宙は一つの生きもので、一つの物質と一つの魂を備えたものである、ということに絶えず思いをひそめよ。またいかにすべてが宇宙のただ一つの完成に帰するか、いかに宇宙がすべてをただ一つの衝動からおこなうか、いかにすべてがすべて生起することの共通の原因となるか、またいかにすべてのものが共に組み合わされ、織り合わされているか、こういうことをつねに心に思い浮べよ。」第4巻40章

「万物によって成立する一つの宇宙があり、万物の中に存在する一人の神があり、一つの物質、一つの法律、叡智を有するあらゆる動物に共通な〔一つの〕理性がある。また同胞であり、同じ理性を共有する動物の完成ということが一つならば、真理もまた一つなのである。」第7巻9章

「四肢と胴とが一つの体を形成する場合と同じ原理が理性的動物にもあてはまる、というのは彼らは各々別の個性を持っているが、協力すべくできているのである。君が自分に向かって「私は理性的動物によって形成される有機体の一肢である」とたびたびいって見れば、この考えはもっと君にピンとくるであろう。」第7巻13章

「ひょっとしたら君は見たことがあるだろう、手、または足の切断されたのを、または首が切り取られて、残りの肢体から少し離れたところに横たわっているのを。起ってくる事柄をいやがったり、他の人たちから別になったり、非社会的な行動を取ったりする者は、それと同じようなことを自分にたいしてするわけである。君は自然による統一の外へ放り出されてしまったのだ。君は生まれつきその一部分だった。ところが現在は自分で自分を切り離してしまったのだ。ただしここで素晴しいことには、君は再び自分を全体の統一にもどすことが許されている。」第8巻34章

「理性のない動物の間には一つの生命が分配されている。理性的動物の間には一つの叡智ある魂が分け与えられている。それはちょうどすべて土からくるものにたいして一つの地があり、我々にものをみせてくれる光が一つであり、我々のようにすべて視覚と生命を持つものの呼吸する空気が一つであるのと同様である。」第9巻8章

「太陽の光は一つである。たとえそれが壁や山や、その他数知れぬものに分割されようとも。普遍的な物質は一つである。たとえそれがどれほど沢山の個体に分けられていようとも、生命のいぶきは一つである、たとえそれが数知れぬものの自然に分かれ、各個体固有の制約の下に分かれようとも。叡智ある魂は一つである。たとえそれが分かれているように見えても。以上いったものの中で(精神以外)の部分、たとえば息や物質のごときものは、感覚もなく、相互間の絆もないが、それでもなお知力および同じ中心に向かって牽引する重力によって結合されている。ところが精神は独特で、同類のものへ向かい、これと結びつく。そして社会連帯の感情はとだえることがないのである。」第12巻30章

 この「一つ」への希求は、新世紀エヴァンゲリオンの「人類補完計画」やA.C.クラーク『地球幼年期の終わり』等にも見ることができるユートピア(あるいはある種のディストピア)だ。この強烈な「一」への信仰と希求を押さえると、ストア哲学の全体像を掴みやすいような気がする。
 このような「一つ」への信仰を土台とする世界観は、デモクリトスに始まる「原子論」とは対極にある。原子論は世界を「バラバラの要素」の集まりだと考える。だとしたら、世界をどのように作るかも自由に見えてくる。しかし世界がもともと「一つ」であるならば、人間が自分の思うように世界を作ってはいけないし、作れるはずもない。世界を「一つ」と見るか「バラバラ」と見るかで、自然観も社会観も宗教観も完全に変わってくる。ストア的世界観は保守的(社会有機体説)に流れやすいし、デモクリトス的世界観は革命的(社会契約説)に流れやすいだろう。

 そしてこのような「一つ」に対する信仰は、空間だけでなく時間に対しても適用される。いわゆるアイデンティティ概念に言及した記述も非常に多い。鴨長明『方丈記』と同じく、儚く移り変わるものを「河」に喩えて説明しているのも印象的だ。

【アイデンティティに関わる記述】

「時というものはいわばすべて生起するものより成る河であり奔流である。あるものの姿が見えるかと思うとたちまち運び去られ、他のものが通って行くかと思うとそれもまた持ち去られてしまう。」第4巻43章

「存在するもの、生成しつつあるものがいかにすみやかに過ぎ去り、姿を消していくかについてしばしば瞑想するがよい。なぜならすべての存在は絶え間なく流れる河のようであって、その活動は間断なく変り、その形相因も千変万化し、常なるものはほとんどない。」第5巻23章

「ある物は急いで生起しようとし、ある物は急いで消滅しようとし、生じ来ったものも部分的にはもう消え失せてしまった。絶ゆることなき時の流れが永遠の年月をつねに新たに保つがごとく、流転と変化が世界をたえず更新する。この流れの中にあって、我々の傍を走り過ぎて行くもの、その上にしっかりと足を踏まえるところもないようなもののうち何をそう尊ぶことができようか。それはちょうど我々の傍を飛んで過ぎて行く雀どもの中のいずれかを愛しにかかるのと同じようなもので、当の雀はもう視界の外へ行ってしまっているのだ。実際各人の生命それ自体も血から蒸発したもの、空気から吸い込まれたものに似ている。なぜならあたかも我々が一度空気を吸い込み、またそれを吐きもどすように、――それは我々が各瞬間にしていることだが――昨日か一昨日君が生まれたときに与えられた全呼吸機能を、最初君が息を汲み取った源泉へ返納するのもまったく同じことなのである。」第6巻15章

「人生は短い。褒める者にとっても褒められる者にとっても、記憶する者にとっても記憶される者にとっても。しかもすべてこの地域のこの小さな片隅でのこと。その上そこでは万人互いに一致しているわけでもなく、個人にしても一人として自己と一致しているものはない。また地球全体は一点にすぎない。」第8巻21章

つねに同一の人生目的を持たぬ者は一生を通じて一人の同じ人間でありえない。しからばその目的はなんであるべきか、ということを付け加えなくては以上いったことは足りない。というのは、大衆がなんらかの意味で善しと見なすものについての世論は必ずしも一致せず、その中にあるもの、すなわち公益に関するものについてのみ一致するようであるが、我々もまた同様に公共的市民的福祉を目的とせねばならない。自己のあらゆる衝動をこれに向ける者は、彼の全行動を首尾一貫したものとなし、それによってつねに同じ人間として存在するであろう。」第11巻21章

 しかし仮に河が常に移り変わるものであったとしても、やはり依然として「河は同じ河」であり続ける。河が同じ河であり続けるように一人の人間が同じ人間であり続けるためには、移り変わるものにこだわってはいけない。たとえば肉体や経済状況のようにめまぐるしく変動するものは、人間存在にとって本質的なものではない。そんな些末なことに囚われるのは、人生全体にとって無駄なことだ。同じ人間であるために決定的に重要なのは、著者によれば「人生目的」の定め方ということになる。この「人生目的」を定める時に、「一」という概念が本質を見定める指針となる。「一」に適っているのが正しい目的で、そうでなければ一時的で些末な衝動に過ぎないということになる。ここはなかなかアクロバティックな論理展開に思えるが、だからこそ逆に言えばストア派の自然観と倫理観を繋ぐ重要な「飛躍=信仰」でもあるのだろう。
▼参考:アイデンティティとは何か?―僕が僕であるために

 他、本筋とはあまり関係ないところで、おもしろい証言もたくさん手に入る。たとえば当時の「子ども」と「学校」にまつわる証言は興味深い。

【学校に関すること】

「曾祖父からは、公立学校にかよわずにすんだこと、自宅で良い教師についたこと、このようなことにこそ大いに金を使うべきであることを知ったこと。」第1巻4章

「しかしこれは皮肉や叱責の調子ではなく愛情をもって、心の底に怨恨をいだかずにやらなくてはいけない。そして学校の先生のような態度ではなく、そこにいる第三者に尊敬されるためでもなく、たとえ周囲に他の人たちがいようとも、まったく彼一人にたいして話すがよい。」

【子どもに関すること】

「腹黒い性質、女々しい性質、頑固な性質、獰猛、動物的、子供じみている、まぬけ、ペテン、恥知らず、欲ばり、暴君。」第4巻28章

「また我々は互いに咬みあう子犬や、笑ったかと思うともう泣く喧嘩好きの子供と選ぶところはない。」第5巻33章

子供の喧嘩と遊び、また死体を担う小さな魂」第9巻24章

「活動の停止、衝動や主観の休止ならびにその死ともいうべきもの――以上は悪いことではない。今度は人生の各段階に目を転じて見よ、たとえば幼年時代、少年時代、青年時代、老年時代等――以上における変化はそれぞれ一つの死である。ここになにか恐ろしいものがあるだろうか。」第9巻21章

 まず興味深いのは、当時の「学校」や「学校の先生」がくだらないものと認識されていることだ。学校や先生に関わらなくて幸せであったと著者は主張している。学校に対するこのような意見は21世紀に入っても見られるところだが、学校や先生は2000年ずっと変わらないということか。
 また本書では、子どもは一貫してくだらないものとして認識されている。理性を最大限に尊ぶ著者からしてみると、理性に欠ける子どもは尊重するに値しないものとなる。このような姿勢は少し後のアウグスティヌスにも同様に見られることになるだろう。西洋思想が子どもをくだらないものと認識する姿勢は、キリスト教の「原罪」に由来するというよりは、ギリシア・ローマの「理性尊重」の姿勢に由来するもののような印象がある。
 また発達段階に対する著者の証言は記憶しておきたい。著者は人間の一生を「幼年→少年→青年→老年」の4段階として認識している。この認識は著者独特のものではなく、ギリシア・ローマを通じて一般的だったと考えていいように思える。そして、その段階の変化を「それぞれ一つの死」だと表現していることから分かるように、それぞれの発達段階をまったく別のものだと認識している様子がうかがえる。この姿勢も、少し後のアウグスティヌスに色濃く見られる考え方だ。子どもを取るに足らないものとして認識する姿勢の背景にある、当時の常識ということだろう。

 また認識論の点では、カントの理性批判を彷彿とさせる描写がそこかしこにあった。カントの考え方は急に登場したのではなく、ストア哲学的な背景と土台があって生まれてきたということなのだろう。

「したがって人間の構成素質の中で第一の特徴は社会性である。第二は肉体的欲情にたいする抵抗力である。というのは、理性的知性的な動きには独特な能力があって、周囲のものから自分を孤立させ、感覚や本能の動きに決して負けないのである。なぜならば後者は双方とも動物的である。ところが叡智の動きは優越を欲し、これらのものに克服されるのを肯んじない。これは当然のことである。なぜならばその性質として叡智は全て他のものを利用するようにできているからである。」第7巻55章

「事物は(我々の魂の)戸の外に立っていて、自分自身の中にとじこもり、自己についてはなにも知らず、なにも伝えない。では彼らについて伝えるものはなにか。指導理性である。」第9巻15章

「「自分とはなにか。」理性のことだ。「しかし私は理性ではない。」それならそれでいい、だが少なくとも理性が自分で自分を苦しめることのないようにせよ。君のほかの部分が具合悪くなった場合には、その部分自体に自己についての意見をいだかしめればいいのだ。」第8巻40章

 カントの倫理的な態度は、著者の倫理的な姿勢とそうとうに共振しているように思った。ストア派はなかなか侮れないなと、改めて認識しなおした次第である。

マルクス・アウレーリウス/神谷恵美子訳『自省録』岩波文庫、2007年<1956年