【要約と感想】田中龍山『ソクラテスのダイモニオンについて―神霊に憑かれた哲学者』

【要約】ソクラテスの姿そのものではなく、後世どのようにソクラテスが語られたかに焦点を当てながら、ダイモニオンとロゴスの関係を考察します。表面的にはダイモニオン(神霊的)とロゴス(理性・論理)は両立しないように見えるし、ローマ時代にもそのような疑問は呈されていましたが、ソクラテスの生に即して考えれば問題なく両立します。

【感想】ダイモニオン、おもしろいよね。ダイモニオンのおかげで、ソクラテスが単なる理屈っぽいオヤジにならず、とてもチャーミングに見えるのであった。
まあ個人的にはダイモニオンの声は聞こえないけれども、でもそれに似たような感覚はあるような気がする。何か言われた時に、なんとなく筋が通っているように見えながら、「ピンとこない」とか「腑に落ちない」とか「居心地が悪い」とか「モヤモヤする」とか「喉に引っかかる」とか「奥歯に挟まった感じ」とか「肌に合わない」とか感じる時はある。そういう時はよくよく原理原則に立ち戻って考えてみれば、やはり何か間違っていることが多いような気がする。
あと、ダイモニオンが「中間」というところが、昔から気になっている。神様と人間を「繋ぐもの」ということで、まさに「メディア」としての役割を果たしている。本文中にも一個所だけ「排中律」という言葉が出て来たけれども、個人的にはこの「排中律」のおかげでいろいろなものがおかしくなっているような気がしている。「中間=メディア=繋ぐもの」が復権することで、世の中や人生が豊かになるような感じがするわけだ。(たとえばカントが理性と悟性を繋ぐものとして「判断力=美学」を重視したように。)

【今後の個人的な研究のための備忘録】
東洋の教育でも、「占い」は極めて大きなポジションを占めている。儒教では「天」の教えに従うことが道徳的な理想であり、「天」の意向は「易=占い」によって知られるものだ。教育の「教」や学問の「学」という漢字は「占い」をする姿を原像としている。教育や学問は「天」の教えを理解するために身に付けるべきものであり、だから「易=占い」は必須知識となっていた。一方、占いに通じていた孔子が「怪力乱神を語らず」としたことも想起される。孔子においても「天の教え」はロゴスと両立しているように見える。
この東西の符号の一致をどう考えるか。

田中龍山『ソクラテスのダイモニオンについて―神霊に憑かれた哲学者』晃洋書房、2019年