【紹介と感想】岩下誠・三時眞貴子・倉石一郎・姉川雄大『問いからはじめる教育史』

【紹介】教員採用試験に役に立つような教科書ではありません。いわゆる教科書的な「教育史」に登場する固有名詞はほとんど登場しません。
本書はいちおう「教育」を対象に書かれていますが、世の中全体のカラクリを垣間見せてくれるような視点を与えてくれます。ものごとの見方や考え方を改めたり掘り起こしたり豊かにしたりするヒントがたくさん示されています。思い込みや先入観から身を引き剥がすのに使ってください。

【感想】「序章」はおとなしいかなあと思ったけれども、「終章」と「あとがき」は本領発揮といったところですかね。とてもおもしろく読みました。

まず個人的には、「本源的蓄積」という経済史的概念に落とし込んで説明するスタイルに、とても好感を持ちました。というのも、私の授業(教育原論)では「原始蓄積」という言葉で学生たちにお話ししているからです。この概念を理解しておいてもらわないと、近代の教育や学校の説明は伝わらないと思うんですね。様々なモノやサービスが「商品化=金で買える交換可能なもの」に変わっていくカラクリを知っているだけで、世界の見え方、あるいは関わり方は、ずいぶん本質に迫るものになるだろうと思うわけです。教育というものが単に「労働力の換金レートを上げる」ために行なわれるものだとしたら、何と寒々しいものなのか、そういうことを分かってほしいなと思っていろいろ工夫して授業を組み立てているところです。

そして続いて、私の授業では「交換不可能なもの」「他のものと比べられないもの」について学生たちに考えてもらっています。そういう「交換不可能なもの」を、教育学の領域では「人格」と呼んできました。「人格」というものがいかに「交換不可能なもの」であるのか、授業では「愛」を手がかりに話をしています。
しかしいまや、教育の世界において、「人格」とは「量ることが可能なもの」になりつつあります。いわゆる「新しい学力」とか「ソフトスキル」と呼ばれるものは、これまで「人格」と呼ばれてきたものの領域に踏み込んで、数字に変えて、測定と交換が可能なものに加工するような知識と技術の体系になっています。
たとえば具体的には、多くのyoutuberが実際にやっていることとは、「人格」を「お金」および「イイネ!」という数字に換える作業です。教育基本法で「人格の完成」と呼ばれてきたものと、いま実際に経産省が行なおうとしている「人格形成」は、おそらくまったく違うものです。(だからおそらく、これまでpersonaityと呼ばれてきたものが、現在はagencyと呼ばれるようになってきているのでしょう)。
本書の言葉で言えば、「人間の心」も資本による植民地化の対象となったということでしょう。もはや地球上に存在しているものでは足りなくなったので、「人間の心」の中にまで入りこんで資源を発見し、掘り起こし、加工し、商品化し、換金し、搾取しようということでしょう。単に欲望を喚起するだけでなく、もっと積極的に「人格を資本化する」ということでしょう。資本化された人格の姿は、ホリエモンなどに具象化されているところです。(そう言われたところで、おそらく彼は喜ぶだけでしょうけどね)。
まあ、本書を読み終わって、自分の研究に引きつけるとどうなるかを考えて、そんなことをつらつらと思ったのでありました。そして「植民地化されない人格」を育んでいく鍵は、やっぱり「愛」かなあと思うのでした。

というわけで、おもしろく読みました。若々しい迫力に、想像力をもらいました。私も、自分自身の仕事を楽しくやらなくちゃなあと、改めて思ったのでした。

【個人的な研究のための備忘録】
「人格」に関する記述についてメモをしておく。

「彼(バーナード・グリュックという精神科医)はまず従来の教育論が知識の伝達のみに集中し、現場の実践も同じ轍を踏んできたと批判します。またこれまで教員養成も、知識伝達テクニックの教授法だけを熱心に教えてきたことをあげ、そこには大きな欠落があると論じます。彼によれば、それはパーソナリティの育成という視点です。本来教室とは、子どもが「自分らしくあることができる場」でなければならず、教師は子どものよき理解者でなければならない。学校がそうした場になるために、教師は教室の雰囲気(atmosphere)づくりに注力しなければならず、その土台となるのが教師のパーソナリティである……。」175頁

まずこの講演が行なわれたのが1923年ということだが、同じようなことがほぼ同時期あるいは少し前の日本でも盛んに主張されている。いわゆる「人格主義」とか「教養主義」と呼ばれる主張内容で、たとえば新渡戸稲造とか阿部次郎が担い手だ。そしてその主張は精神医学に由来するのではなく、カントの批判哲学に由来する(直接的な影響はイギリスのグリーンから)。このアメリカの精神科医の主張にも、精神衛生運動からの流れだけでなく、同時代の「人格主義」の影響が色濃く反映している可能性はないか。
またあるいは、アメリカ(およびイギリス)ではpersonalityという単語はあまり積極的に使用されず、同じような文脈ではcharacterという単語が使用されることが多いような印象がある(たとえばオーエンが形成しようとしたのはpersonalityではなくcharacter)。原文でどちらの単語が使用されていたかは分からないのだが、もしもpersonalityであるとすれば、どういう事情が反映しているのか。

岩下誠・三時眞貴子・倉石一郎・姉川雄大『問いからはじめる教育史』有斐閣ストゥディア、2020年