【要約と感想】諏訪哲二『学校の「当たり前」をやめてはいけない!―現場から疑う教育改革』

【要約】学校の「当たり前」は、先人の知恵の積み重ねでできているので、思いつきで壊してしまうと大変なことになります。学校とは単なる人材養成の場ではなく、人格形成の場であることを忘れてはなりません。新自由主義の考えを元に教育改革を行なうと、酷いことになります。

【感想】いつもの諏訪節で、安心する。諏訪の言う「二元論」で物事を考えれば、まあ、こういう結論になるのは当たり前だろう。それ自体は特に悪いことではない。教育の本質が「自由でない者を強制的に自由にする」ということだと考えれば、諏訪の言いたいことはよく分かる。「人格の完成」の考究をライフワークとしているので、わかりみが激しい。臨教審以降の新自由主義的教育改革が近代教育の理念を根本から破壊してしまったことについては、おおむね同意だ。

またあるいは、「当たり前」というものが先人の知恵の積み重ねでできているという考え方は、バークやオルテガの系列に連なる穏当な保守主義と言える。「死者の立憲主義」を唱える中島岳志も思い浮かぶところだ。「理性」というものの限界をしっかり見定め、改革のための改革に冷や水を浴びせるのは、悪いことではない。

ただ問題は、世の中がそう簡単に「敵/味方」に分けられるか?ということだ。二元論というものは切れ味は鋭いのだが、鋭すぎて、切ってはいけないものまで切り分けてしまう。そういう危うさも併せ持つ本だったように思う。「人格の完成」と「当たり前=保守主義」という実はそう簡単には両立しないはずのものが現実的には両立してしまうように、現実というものはとても複雑だ。新自由主義というものも、論理的には結びつかないようなものと現実的には結びついている。そういう複雑で厄介な現実は、「二元論」からは見えてこない。

【要検討事項】
「自律」という言葉に対する理解(103頁)は、かなり歪んでいると思う。本来はカントの言う「自己立法能力」やルソーの言う「一般意志」という概念を土台にして考えるべき概念だろう。
また、「近代学校はイギリスの教会の日曜学校から始まった」(161頁)と言うが、そんな単純な話ではなかろう。イギリスならオーエンの名前を挙げる方がまだマシな気がする。

諏訪哲二『学校の「当たり前」をやめてはいけない!―現場から疑う教育改革』現代書館、2020年