【教育課程編成の基礎】教育の目的と目標―教育基本法と学校教育法の規定

はじめに

 このページで解説しているのは、あくまでも「日本の法律で定められた教育の目的と目標」です。哲学的・原理的に「教育の目的」を考察したものではありませんので、あらかじめご了承ください。

 ちなみに、「教育の目的」が何なのかについては、もちろん一人一人答えが違ってよいものです。しかし、学校の先生に限って言えば、答えは一つに決まっています。法律で決められているからです。法律に則って粛々と仕事をするのが、教育公務員の仕事です。私立学校の教師も、これに準じます。「教育の目的」は法律でしっかり決められていますので、教師はそれに従う義務があります。

法律の全体構造

 教育の目的は、レベルに応じて、いくつかの法律や文書に段階的に示されています。

【教育基本法】教育全体(家庭教育・社会教育・生涯教育・学校教育)の目的

【学校教育法】特に学校教育に限った目的

【学習指導要領】特に教師の仕事として期待される具体的な内容

 目的を段階で分けなければいけないのは、教育というものが極めて幅広い領域を覆っているからです。たとえば教育というと直ちに学校教育だけをイメージしてしまいがちなのですが、教育は学校だけで行っているものではありません。家庭でももちろん教育を行なっていますし、社会全体でも教育を行なっています。図書館や博物館は、社会教育のための施設です。また、学校を卒業した後の大人向けの教育も、生涯学習の重要性が認識されるのに伴って、急速に充実しつつあります。そういう教育全体を含み込んだ上で目的を定めているのが、教育基本法です。

 次に、教育は時間的にも空間的にも広い領域を覆っているのですが、時間と空間を限って教育の目的を定めているのが学校教育法です。
 時間的には、おとなのことはあまり考えていません。児童生徒を対象に教育を考えます。
 また空間的には、学校以外のことはあまり考えていません。学校の中でどのような教育を行なうことが期待されているか、に絞って目的と目標が定められています。

 さらに次に、学習指導要領では、教師の仕事として期待されることが書いてあります。

 ということで、教育基本法・学校教育法の順に、教育の目的は何とされているか、確認していきましょう。

教育基本法第1条

 教育の目的は、日本の教育にとって最も大事な教育基本法が定めています。

【教育基本法】第一条
教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

 というわけで、教育の目的とは、まずは「人格の完成」を目指すということです。そして「国民の育成」を期して行ないます。頭を良くするとは一言も書いていないことにご注意ください。もちろん偏差値を上げるということは、一言も書いてありません。法律に書いてある以上は、逆らえません。これに従って仕事をしていくしかありません。

 はい、わかりました。教育の目的は人格の完成です。人格の完成をすればいいんですね。法律にそう書いてあります。
って、本当に大丈夫でしょうか?
 確認しておかなければならないことが2つあります。

「人格の完成」を目指すのは誰か?

 確認事項一つ目、法律で教育の目的が「人格の完成」となっているのなら、私たちは人格が完成ができなかったら、法律違反になってしまうのでしょうか? 教育で人格の完成ができなかったら、法律を破ったということで、刑務所に入らなければならないのでしょうか? 人格の完成ができなかったから、教育基本法第一条違反で懲役100年とか、聞いたことがありますでしょうか? ありませんね。
 法律によって教育の目的は「人格の完成」となっていますが、仮に人格の完成ができなかったとしても刑務所に入ることはなさそうです。どうしてでしょうか?

 実は、教育基本法第一条が言っているのは、「一般市民が人格の完成を目指さなければいけない」、ということではありません。国家権力が教育に携わるときに、「人格の完成」を目指すような教育を行なわなければならない、と言っているのです。「人格の完成」を目指すというのは、一般市民ではなく、権力者の方に向けられた規定です。政治家や官僚が教育に関する政策を行なうときに、教育基本法第一条を守る必要がある、ということです。権力者の側が「人格の完成」を損なうような教育政策を行なってはならない、ということです。そして学校の先生も、権力機構の一員ですので、もちろん教育基本法第一条に従う義務があります。
 そんなわけで、仮に一般庶民が「人格の完成」というものができなかったとしても、捕まって刑務所に入れられるということはありません。

 こういうふうに教育基本法を守るのは一般市民ではなく国家権力の側だというのは、教育基本法が「準憲法的性格」を持っているからです。教育基本法とは、名前は法律ですが、役割は憲法のようなものと考えられています。これは私が勝手に言っているのではなく、教育基本法が制定されたときの事情に関わっています。1946年に日本国憲法ができるとき、国会で審議がありました。その審議の際に、ある国会議員が質問に立ち、教育というものが重要であるにも関わらず、憲法にはあまりしっかり書かれていない、どういうことだ、と質問します。それに対して内閣の方の答えは、教育はあまりにも重要なので、教育に関する憲法のようなものを独立して作る、というものでした。その答えの通り、日本国憲法の翌年に、教育基本法が制定されます。政府が言っていた通り、教育基本法は様々な面で他の普通の法律と異なっていました。まさに憲法のようなものとして作られたことが、よく分かるようになっていました。
 まず、前文がついていました。他の法律は、ふつうはいきなり「第一条……」から始まりますが、教育基本法には第一条の前に「前文」がついていました。すでにこの時点で他の普通の法律とは明らかに異なっているのですが、さらにその前文の内容が重要です。前文では、教育基本法が全面的に日本国憲法と密接な関係を持つことが書かれていました。

【教育基本法(旧)】前文
われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。

 日本国憲法に書かれていることが理想だとしたら、それを実現するのは教育の役割である、ということが書かれています。日本国憲法は、教育基本法とセットになって、始めて実現できる、と書いてあるわけです。また、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示するとも書いてあります。日本国憲法と教育基本法は、お互いがお互いを必要とする関係になっています。教育基本法は、日本国憲法と一体のものとして理解するべき文章です。名前は法律となっていますが、性格は憲法である。つまり準憲法的性格をもつ、というわけです。

 ということで、確認事項一つ目、法律で教育の目的が「人格の完成」となっているのなら、私たちの人格が完成できなかったら、法律違反になってしまうのでしょうか? なりませんので、ご安心ください。

人格の完成とは何か?

 確認事項の2つめ、教育の目的は「人格の完成」ということは読めば分かります。が、「人格の完成」とはどういう状態を指しているのでしょうか? たとえば、みなさんは人格が完成していますでしょうか? 小学校から高校までの教育は、法律に則って「人格の完成」を目指して行なわれてきているはずですが、その教育によって、みなさんの人格は、完成しましたでしょうか?
と言われても、なかなか困ってしまいます。「人格の完成」とは具体的にどういう状態を指しているのか、法律だけではまったく分からないからです。
 そんなわけで、「人格の完成とはどういう状態か」については、法律の解釈を超えて、別のところで改めて哲学的・原理的に考察する必要があります。

教育基本法第2条

 「教育の目的」は教育基本法第1条に示されていましたが、続いて「教育の目標」は教育基本法第2条に示されています。

【教育基本法】第2条(教育の目標)
教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

 教育の目標が5つ示されています。
 ところで、「目的」と「目標」の違いは、何でしょうか?

目的と目標の違い

 目的と目標の違いについては、いろんな人がいろんなことを言っていますが、ここでは漢字に注目して説明します。目的の「的」は、まと、です。そこに当てなければいけないという、まと、です。当たったら成功、外れたら失敗、という、まとです。
いっぽう、目標の「標」は、しるし、です。そこを通っていこうという、しるしです。着実にしるしを通っていくことで、最終的に目指したゴールに辿り着くことができます。
 そんなわけで、目的が最終的なゴール地点を指し示しているとすれば、目標はその最終的なゴール地点にたどりつくための重要チェックポイント、のようなものです。重要チェックポイントを一つ一つこなしていけば、最終的なゴールにつけます。

 ということで、人格の完成と国民の育成が最終的なゴールだとすれば、これから確認する「教育の目標」は、人格を完成するためにクリアしなければならない重要チェックポイントだ、という感じで理解するといいのかなと思います。

教育の目標の中身

 さて、第2条が示した5つの教育目標は、それぞれ一言のキーワードで示せば、次のようになります。
 1 人格
 2 個人
 3 社会
 4 地球
 5 人類

 1では、人格の完成の中身が知徳体だ、というようなことを言っています。
 2から5は国民の育成に当たりそうですが、
 2は、教育は個人をよりよくするために行なうのだ、というようなことを言っています。
 3は、教育とは社会をよりよくするために行なうのだ、というようなことを言っています。
 4は、教育とは地球をよりよくするために行なうのだ、というようなことを言っています。
 5は、教育とは人類をよりよくするために行なうのだ、というようなことを言っています。

養うとは?

 また注目するところは、すべての条項で「態度を養う」と書かれているところです。まず「養う」とは、何かを外側から与えるのではない、ということです。人間が内側にもっていた力を育てていこうということです。
 植物にたとえさせてください。教育者にできることは、日光が当たる場所に出し、水を撒いて、肥料を与えることです。植物を大きくしようとして、芽をつまんで、ひっぱって伸ばそうとしても、植物は大きくなりません。むしろ、ちぎれて台無しになってしまいます。外側から力を加えても、植物は大きくなりません。日光に当てて、水を撒くことで、内側から大きくなろうとする力を引き出すと、植物は成長します。
 人間もまた同じだ、ということです。
 態度を与えることはできません。養うことしかできません。教育者は、成長できる環境や条件を整えて、あとは自分から成長するところを待つことしかできません。外側から力を加えて引っぱっても、歪んだりちぎれたりしてしまうだけです。

態度

 そして、養うものは、態度です。この「態度」という言葉は教育業界ではよく使われますが、一般社会で使用する態度とは、少し違うニュアンスがあります。教育業界では、「関心・意欲・態度」というふうに、関心や意欲という言葉とセットとなって使われることが多い言葉です。何か具体的な知識や技術を外から与えるのではなく、一生続く人生の中での「態度」を養うということです。必要な知識や技術は、職業など環境によって大きく変わります。身につけた知識や技術が、将来つく職業で役に立つかどうかは、分かりません。数学について言えば、三角関数を毎日使うような仕事もあれば、三角形の面積を求める公式すら一生使わないような人もいるでしょう。知識や技術は、使えるかどうかは分かりません。
 しかし「態度」のほうは、どんな場面でも意味を持ちます。態度さえ養われていれば、場面や状況に応じて、その都度必要な知識や技術を素早く修得し、仕事に役立たせることができます。態度が形成されていれば、知識や技術がなくても、相応しい振舞や行動を素早く理解して、場面や状況に適応することができます。逆に態度が養われていない場合、どれほどたくさんの知識や技術を身につけていても、すぐに時代から遅れていくでしょう。
 教育が目指すものは、単に知識や技術を身につけることだけでなく、むしろ、知識や技術を身につけるための関心や意欲や態度を養う方が重要だ、と教育基本法第2条で定める教育の目標は言っているわけです。

教育の目標

 これを踏まえると、子どもたちが目の前の問題ができたとかできないとかなどに一喜一憂することに、ほとんど意味がありません。偏差値がどうのこうのということに、たいした意味はありません。いい高校とか大学に送り出すことは、あまり意味がありません。大量の知識や技術を身につけさせることは、大切なことではありません。いちおう幅広い知識と教養を身につけるとは書いてありますが、それは「真理を求める態度」が養われるかぎりにおいて、意味を持ちます。
 重要なことは、人生全体をよりよく生きられるような態度が養われるかどうか、ということになります。よく生きるための態度が身につかなければ、どれほど大量の知識や技術があっても、いい高校や大学に行っても、よい人生にはなりません。
 と、私が主張しているのではなく、教育基本法にそう書いてあるわけです。

教育基本法第6条

 ここまで、教育の目的は「人格の完成」と「国民の育成」であることを確認しました。が、この場合の教育とは、家庭教育や社会教育も含めて、世の中全体で行なうことをイメージしてます。また、学校を卒業した後も続く、生涯教育も含めて考えています。
 しかし教師が携わる仕事は、家庭教育や社会教育や生涯教育ではなく、学校教育です。学校教育は、家庭教育や社会教育にはできない、特別の機能や役割があるはずです。
 そんなわけで、続いて、学校教育特有の目的について確認していきましょう。学校教育の目的は、やはり教育基本法に規定されています。

【教育基本法】第6条(学校教育)
法律に定める学校は、公の性質を有するものであって、国、地方公共団体及び法律に定める法人のみが、これを設置することができる。
2 前項の学校においては、教育の目標が達成されるよう、教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない。この場合において、教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視して行われなければならない。

 さてまず第一項では、学校が「公の性質」を持つとされています。私立学校も、私立ではあっても、「学校」と呼ばれるからには「公の性質」を持つという規定です。私立学校の先生も、私立だからといってやりたい方題していいわけではなく、教育公務員の規定に準ずるというようにご理解ください。

 続いて第二項です。
 もともとの教育基本法には書いてなかったものが、2006年の改訂で付け加わったものです。2006年に教育基本法を改定した人たちが、何をしたかったかがよくわかる条文になっています。
 まず「教育の目標」とは、既に確認した、教育基本法第二条の5項目です。人格の完成のために知徳体を育成し、国民の育成を期すために個人・社会・地球・文化をよりよくするような態度を養うというものでした。
 そして心身の発達に応じるとは、小学校・中学校・高校・大学で内容や方法が異なるということですし、体系的・組織的ということは、法律に則った上で、個人の勝手な考えではなく指揮系統・命令系統を確立した上で仕事をしてください、ということですね。
 教師に限っていえば、自分の思いつきだけで授業をするのではなく、法律や学習指導要領に則って、校長先生の監督の下で仕事をしてください、ということです。もちろんその範囲の中で努力や工夫をすることにはなりますが、教師が勝手なことをしてはならない、自由ではない、ということが、2006年の改訂によって強調されるようになったことが分かります。

 また続いて、「学校生活を営む上で必要な規律を重んずる」ということも、2006年以前の規定にはなかった条文です。必要な規律の具体的な中身が何かについては書いてありませんが、学校の児童生徒だけでなく、教師の方にも縛りをかけたいんだろうな、ということは分かります。勘ぐればいろいろ出てきてしまうところではありますが、法律に書いていないことについては、さしあたって触れないことにしましょう。

 そして続いて「自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視」と書いてあります。いいたいことは、読めば分かります。狙いも分かります。これは生涯教育を睨んで作られた規定です。
 現代社会はあまりにも複雑になりすぎて、学校で学んだ知識や技術だけでは、もう仕事はできません。学校を卒業してからも、新しい知識や技術を次々と身につけていく必要があります。自分の知識や技術をアップデートし続けられる人だけが、仕事を続けられます。学校教育とは、知識や技術を身につけさせるだけでなく、卒業してから自分でアップデートできるような力をつけるのが仕事だ、ということです。「自ら進んで学習に取り組む意欲」さえ身につけば、学校を卒業してからも自分で自分をアップデートし続けることができるようになります。
 ということで狙いはよく分かるのですが、考えれば考えるほど、難しいことが書かれています。学生に興味や関心を持たせればいい、と簡単にいう人がいます。いやいや、興味や関心を持ってもらうことがどれほど難しいことか、教育に携わったことがない人にはなかなか想像がつかないところかもしれません。人は、そう簡単には興味や関心を持ちません。
 この「自ら進んで学習に取り組む意欲」、とても大切なことだということは理解しつつも、どうやって実現するのか、ということになると、たいへん厄介なものです。が、法律に書いてある以上、教師の仕事として正面から取り組んでいかなければなりません。

教育基本法第5条

 続いて、義務教育に絞って、学校に期待される仕事を確認していきます。義務教育に期待されるものは、教育基本法第5条に規定されています。

【教育基本法】第五条(義務教育)
国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、普通教育を受けさせる義務を負う。
2 義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。
3 国及び地方公共団体は、義務教育の機会を保障し、その水準を確保するため、適切な役割分担及び相互の協力の下、その実施に責任を負う。
4 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料を徴収しない。

 義務教育の理念と歴史について、ごくごく基本だけ確認しておきますと、義務教育といっても、子どもが教育を受ける義務では、もちろんありません。けっこう多くの人が勘違いしていますが、子どもには教育を受ける義務はありません。子どもが持っているのは、教育を受ける権利です。義務ではありません。義務を持っているのは、大人のほうです。
 「国民」は、教育を受けさせる義務を負っています。この教育基本法第5条の第一項に、しっかりそう書いてあります。ここ、多くの大人が間違っているとしても、教師が間違えるわけにはいきません。

普通教育とは?

 それから注意しておきたいのは、「普通教育」という言葉です。というのは、現在一般的に使われる「普通」という言葉のイメージとは、かなり異なるからです。
 「普通」というと、現代日本では勘違いしていて、つまらないとか、ありきたりとか、どこにでもあるというような、あまり良くないイメージで使うこともあります。が、本来はそういう悪い意味で使う言葉ではありませんでした。「普通」とは、「あまねく、つうじる」。あまねくとは、全てのもの、という意味です。何かに偏るのではなく、あらゆるものに通じるような教育、という意味です。金持ちだろうが貧乏人だろうが、頭が良かろうが悪かろうが、男だろうが女だろうが、あらゆる人が関わる教育だ、ということです。サラリーマンになる人にも必要な教育、プロスポーツ選手になる人にも必要な教育、マンガ家にも国家官僚にも芸能人にも社長にも将棋指しにも先生にも必要な教育、あらゆる人にとって意味のある教育だ、ということです。
 電車で「普通」と「特急」があります。なんか特急のほうが偉くて、普通の方はダメな電車みたいに思う人もいますが、もちろんそういうことではありません。「普通電車」がなんで「普通」なのかというと、ありきたりだからではありません。駅を飛ばさずに、あらゆる駅に止まってくれるからです。特急が飛ばしてしまうような駅にも、普通電車は止まってくれます。頭が悪いから飛ばす、なんてことはありません。貧乏だから飛ばす、なんてことはありません。芸能人だから飛ばす、ということもありません。どんな人にも必ず止まる。それが「普通教育」です。

義務教育の目的3つ

 さて、義務教育の目的ということで特にポイントとなるのは、第2項です。ここに、小学校と中学校で教師が行なうべき仕事の内容が書かれています。
 分析すると、3つの目的があるようです。
(1)各個人の有する能力を伸ばす
(2)自立的に生きる基礎を培う
(3)国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養う

 これが、あらゆる人が関わる普通教育の目指すものです。外側から知識や技術を一方的に叩きこむとか、成績を上げていい高校いい大学を目指す、というようなことはもちろん書いていない、ということにご注目ください。
 (2)は、それぞれの子どもが自分で生きていけるために教育をするんだ、ということですね。
 (3)は、国家や社会を成り立たせるために教育をするんだ、ということですね。
 教育の目的がこういうことなら、単に偏差値を上げるような教育は、期待されていません。リーダーシップやフォロワーシップなど協調性を身につけるとか、忍耐力とか、計画力とか、実行力とか、コミュニケーション能力とか、さらに民主主義の社会を続けていくために必要な資質など、いろいろなものを身につけていく必要があるでしょう。授業以外にも、運動会や文化祭などの学校行事や、生徒会や委員会活動など自治的活動の基礎、あるいはクラスで多様な人間関係を作ることなど集団生活の経験が重要になってくる所以です。サラリーマンになる人にも、マンガ家になる人にも必要な力をつけようということです。

学校教育法

 ここまで確認した教育基本法の規定に基づいて、学校が行なうべき教育の目的を規定しているのが、学校教育法です。

【学校教育法】第29条
小学校は、心身の発達に応じて、義務教育として行われる普通教育のうち基礎的なものを施すことを目的とする。
【学校教育法】第45条
中学校は、小学校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、義務教育として行われる普通教育を施すことを目的とする。

 普通教育については、既に説明しました。改めて確認しますと、何か特別な職業を目指して教育をするのではなく、あらゆる職業に共通して必要になるようなことを身につけることが大切でした。小学校はそのうち基礎的なもの、中学校ではその基礎の上に立つ、ということが学校教育法に規定されています。

具体的な目標規定

 続いて、第30条に「目的と目標」に関わる重要な規定があります。

【学校教育法】第30条
小学校における教育は、前条に規定する目的を実現するために必要な程度において第21条各号に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
2 前項の場合においては、生涯にわたり学習する基盤が培われるよう、基礎的な知識及び技能を習得させるとともに、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくみ、主体的に学習に取り組む態度を養うことに、特に意を用いなければならない。
【学校教育法】第46条
中学校における教育は、前条に規定する目的を実現するため、第21条各号に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
【学校教育法】第49条
第30条第2項、第31条、第34条、第35条及び第37条から第44条までの規定は、中学校に準用する。この場合において、第30条第2項中「前項」とあるのは「第46条」と、第31条中「前条第1項」とあるのは「第46条」と読み替えるものとする。

 第30条第二項が、いわゆる「学力の三要素」と呼ばれるものです。極めて重要ですが、別のページでご確認ください。(参考⇒「「学力」とは何か?―学校教育法の定義と背景―」)

 さて、第30条第一項に戻ります。「前条に規定する目的」とは、既に確認したとおり、普通教育を施すことでした。が、具体的な中身については、たらい回しされています。第21条に掲げられている、とのことです。
 ということで、第21条を見てみましょう。

【学校教育法】第二十一条
義務教育として行われる普通教育は、教育基本法(平成十八年法律第百二十号)第五条第二項に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
二 学校内外における自然体験活動を促進し、生命及び自然を尊重する精神並びに環境の保全に寄与する態度を養うこと。
三 我が国と郷土の現状と歴史について、正しい理解に導き、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養うとともに、進んで外国の文化の理解を通じて、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
四 家族と家庭の役割、生活に必要な衣、食、住、情報、産業その他の事項について基礎的な理解と技能を養うこと。
五 読書に親しませ、生活に必要な国語を正しく理解し、使用する基礎的な能力を養うこと。
六 生活に必要な数量的な関係を正しく理解し、処理する基礎的な能力を養うこと。
七 生活にかかわる自然現象について、観察及び実験を通じて、科学的に理解し、処理する基礎的な能力を養うこと。
八 健康、安全で幸福な生活のために必要な習慣を養うとともに、運動を通じて体力を養い、心身の調和的発達を図ること。
九 生活を明るく豊かにする音楽、美術、文芸その他の芸術について基礎的な理解と技能を養うこと。
十 職業についての基礎的な知識と技能、勤労を重んずる態度及び個性に応じて将来の進路を選択する能力を養うこと。

 「教育基本法第5条第2項に規定する目的」については、既に確認しました。3つの目的がありました。
(1)各個人の有する能力を伸ばす
(2)自立的に生きる基礎を培う
(3)国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養う
 この目的を実現するために、学校教育法第21条で具体的に10個の項目が掲げられています。

 注目すべき点は、国語や算数や理科といった教科目が先に定められているわけではない、ということです。身につけるべき態度や能力が定められている、ということです。大事なのは教科の知識を身につけることではなく、よりよい人生を送るための態度を養うことだ、ということです。目的は、よりよい人生を送ることです。
 教科書に書いてある知識は、目的を達成するための、手段です。
 たくさんの知識や技術を身につけることは、あくまでも手段です。教育に限らずものごとがおかしくなるのは、目的と手段を取り違えてしまったときです。手段を手段として考えるのではなく、手段を目的だと勘違いしたときに、たいていのものごとはおかしくなります。教育に限ると、偏差値を上げることとか、いい高校や大学を目指すことは手段の手段にすぎないのに、それを目的にしてしまうと、何かが歪んでいきます。よりよい人生を送るという目的が見失われてしまいます。
 この学校教育法第21条に掲げられている10個の項目も、あくまでもよりよい人生を送るという目的のための手段ではありますが、国語や理科や社会といった教科は、さらにその手段に過ぎません。手段の手段である各教科のテストの点に一喜一憂することは、完全に教育の目的を見失っている、ということです。テストの点を上げること自体が目的になってしまい、なんのためにテストの点を上げるのか、目的が見失われてしまうと、いろいろなものがおかしくなっていきます。

 たとえば、国語や数学や理科の点を上げることが目的だと勘違いしていると、学校教育法第21条の10個の項目が、まったく理解できません。
 たとえば項目4では「家族と家庭の役割、生活に必要な衣、食、住、情報、産業その他の事項について基礎的な理解と技能を養う」と書いてあります。国語や数学や理科といった教科目を手段ではなく目的だと勘違いしていると、この項目4を「ああ、家庭科でやるんだな」と勘違い指定しまいます。もちろん「家族と家庭の役割、生活に必要な衣、食、住、情報、産業その他の事項について基礎的な理解と技能を養う」ことは、家庭科を通じても行ないます。しかしたとえば、社会科という科目も、この項目を達成するために重要な役割を果たします。産業について理解するためには、地理の知識が絶対に必要となります。理科も重要な役割を果たします。食について理解するためには、タンパク質やアミノ酸の化学組織についての知識が必要です。住について理解するためには力学の知識が欠かせません。衣については、生物の知識が絶対に必要になります。国語も数学も必要です。
 また項目6、「生活に必要な数量的な関係を正しく理解し、処理する基礎的な能力を養うこと。」については、算数や数学が扱うものだと頭から決めてかかる必要はありません。小学校低学年では、なわとびを飛んでいるときに数についての概念を豊かにしていくものです。何が目的で、何が手段かを、見失わないようにする。教育に限らず、仕事をする上ではいちばん大切なことです。学校教育法21条は、この10項目自体が手段であり、各教科はさらにその手段である、ということを踏まえて理解するべき条文になります。
 そして大本の目的は、教育基本法第1条、「人格の完成」と「国民の育成」であることは、折に触れて思い返したいものです。

まとめ

・教育基本法第1条によれば、教育の目的は「人格の完成」と「国民の育成」です。
・教育基本法第2条では、「人格の完成」と「国民の育成」という目的を実現するための目標が、さらに具体的に示されています。
・教育基本法第6条には、特に学校教育の目的が規定されています。
・教育基本法第5条には、義務教育の目的が規定されています。
・学校教育法には、教育基本法に示された目的を達成するために、さらに具体的で細かい目標が定められています。