【道徳教育の基礎】道徳教育は可能か?

道徳教育の可能性

 道徳教育が可能かどうかについては、3段階の水準で考える必要があるでしょう。
(1)道徳に正解はあるのか?
(2)道徳を教えることはできるか?
(3)仮に道徳を教えられるとして、「学校」で教えることは適切かどうか?

(1)道徳に正解はあるのか?

 「道徳に正解はあるのか?」という問いに対する答えは、3通りです。
(1)ある
(2)ない
(3)わからない

(2)道徳を教えることはできるか?

 (1)の答えによって、(2)への回答も変わってきます。もしも「道徳に正解がある」のであれば、算数で正解を教えるように、道徳の正解を教えることが可能です。そう考える立場を、「徳目主義」と呼びます。世の中には絶対に正しい「徳目」があって、それを教えることによって道徳が身につくという、単純な考え方です。
 しかし容易に想像される通り、「何が正しいことか」を知識として知っていたとしても、それに従って行動できるかどうかは、まったく別のことです。「徳目」を「知識」として脳味噌に刻み込んだだけで、はたして本当に「道徳を教えた」と言えるのでしょうか? 行動にまで影響を与えることは、可能でしょうか?

 では、「(2)道徳に正解がない」ような場合はどうでしょうか。難しい言葉では、道徳には正解がないという考え方を「相対主義」と呼びます。さて、正解がないのだから教えられそうもないように思えますが、実は必ずしもそうではありません。確かに算数で正解を教えるようにはいきませんが、別の方法はあるでしょう。具体的には、「メタ視点に立つ」という方法を身につけることの意義が研究されています。
 たとえ道徳には一つの答えがなく、様々な立場の人々が様々な道徳的基準を持っているにしても、どうして様々な立場が様々な考え方をしているかという「理由」や「根拠」については、論理的に考えることができます。そして表面的な道徳は異なっていても、実は「理由」や「根拠」のレベルでは同じことを考えていることを発見できたりします。「理由」や「根拠」を論理的に考えることは、様々な知識を得て、考え方のトレーニングを積めば、可能になります。こうやって「知識」を得たり、「思考法」を身につけることを「教育」と呼ぶのであれば、道徳を教えることはできる、ということになります。
 つまり、表面的な「徳目」のレベルで道徳について考えるのではなく、そこから一つ上のレベル(理由や根拠)に登って、道徳の論理を考えようということです。この「一つ上のレベルに登る」ことを「メタ視点に立つ」と言います。

 それでは「(3)わからない」という場合は、さすがに教育を諦めなければならないでしょうか。実は、2400年前にソクラテスという賢者が行なっていた「道徳教育」は、「道徳の正解は分からないということを分かろう=無知の知」というところからスタートします。そして単なる知識の問題ではなく、行動そのものの変化まで、話が広がっていきます。
 ソクラテスの教育の中身については、別の記事をご参照下さい。(※「ソクラテスの教育―魂の世話―」)

(3)仮に道徳を教えられるとして、「学校」で教えることは適切かどうか?

 仮に道徳を教えることが可能としても、たとえばそれは「家庭」や「宗教施設(教会やお寺など)」で行なわれるべきものであって、「学校」では敢えて行なうべきではないと考える場合があります。さて、家庭や宗教施設ではなく、「学校」で道徳を教えることは良いことなのでしょうか?
 この問いに答えるためには、そもそも「学校」とはどういう施設かということが明らかになっていなければなりません。たとえば、もし仮に「学校は知識を教えるところ」だということになれば、「知識ではない道徳」を教えてはダメだということになるかもしれません。実際に、大半の「塾」では道徳は教えられていません。塾に期待されているのは「知識」を増やして「偏差値」を上げることだからです。(ちなみに道徳が「知識」であるかどうかは、(1)の答えによって変わりますので、ご注意下さい)
 逆に、現実の「学校」において実際に「道徳」が教えられているということは、「学校は知識を教えるところ」ではないということになります。学校が「知識を教えるところ」ではないとすれば、どういうところなのでしょうか?
 この問題は次の「道徳教育は必要か?」で詳しく考えていきましょう。