【要約と感想】北詰裕子『コメニウスの世界観と教育思想―17世紀における事物・言葉・書物』

【要約】コメニウスの教育思想の特徴は近代的な「事物主義」とされてきましたが、実際には前近代(17世紀)的な性格を色濃くもっています。コメニウスの教育思想は、単に「方法」として見るだけでは理解できません。「神の三書」という存在論や17世紀の言語観(普遍言語構想)を踏まえて、初めて全体像が見えてきます。コメニウスの言う「事物」とは、現代の我々が考えるような客観的な対象ではなく、「神の三書を読む文字」でした。

【感想】とてもおもしろく読んだ。
大学の講義(教育原理)でコメニウスを扱う必要が当然あって、西洋教育史の概説書はいくつか読んできているわけだが、ことコメニウスに関しては、正直、位置づけがよく分からなかったのだった。具体的には、実際に『世界図絵』を読む限り、それが「近代的な教育」に連なるものとはどうしても思えなかったのだ。どういうことか知ろうと思って概説書をなぞっても、だいたい「感覚主義」とか「事物主義」と言って終わってしまい、本質が見えてこないのだった。そこで一念発起して、ちゃんとしたコメニウス研究書を読もうと思って本書を手に取ったわけだが。いやはや、とてもおもしろかった。勉強になった。

結果として、「コメニウスは近代じゃないだろう」という私の違和感は、半分当たっていたようだった。私の理解では、これは「教育」ではなく、「教」だ。「教育」の「教」は「宗教」の「教」でもある。そういう、教育と宗教が未分化である「教」の世界が展開されているのが、コメニウスの世界だ。本書の結語でも仄めかされているように「教育」だったら単なる方法に落とし込むこともできなくはないが、「教」であったら世界観や存在論と切り離すことは不可能だ。
そしてその世界観や存在論は、間違いなく「進化論以前」のものだ。本書自体には「進化論」というモチーフはまったく出てこなかったわけだが、私の読み取りでは「前近代」というよりは「進化論以前」の認識論・存在論という印象が強く残った。というのは、コメニウスの言う「事物」とは、進化論以後の私たちが考える「個物」ではなく、「類」に相当するように読めたからだ。
本書ではそれをプラトン主義的に「イデア」と呼んでいたが、アリストテレス的に言えば「類」ということになる。コメニウスの言う「事物」が「個物」ではなく「イデア/類」であると理解すれば、『世界図絵』がどうしてああなっていたのか、すんなりと理解できる。コメニウスは「類」の体系を漏れなく網羅的に示すことが可能であり、義務であると考えていたわけだ。完全に進化論以前の発想だ。(なんとなく、朱子学の言う「格物」の「物」に近いかもしれない。フーコー『言葉と物』を読みかえさねば…)
だから、「コメニウスは近代じゃないだろう」という理解は半分間違っていて、正確には「進化論以前だろう」と理解するべきところだったわけだ。たとえば「進化論」や「熱力学」の前には、普遍言語としての数学を用いて世界を完全に記述できるという認識と義務観が存在していた。そしてそれは近代的な価値観であり、そういう意味ではコメニウスも近代的な価値観を共有しているように思える。

それから、コメニウスが世界そのものを学校だと捉えていたところなど、極めて興味深かった。プラトンとの親和性を想起させるところでもある。プラトンは教育を学校だけで完結するものではなく、本質的には「正義の法」に基づいた社会教育であるべきだと捉えていた。コメニウスも、学校教育は8段階ある人生行路のうちの前半部分で必要となるだけで、最終的には世界そのものが学校になると言う。

そんなわけで、新プラトン主義の射程距離の長さにも、改めて驚く。私が追究している「人格」という近代的概念の背後には、どうやら新プラトン主義が控えている。
講義に活かせるかはどうかは分からないが、少なくとも個人的にはかなりスッキリした。ありがたい本であった。

北詰裕子『コメニウスの世界観と教育思想―17世紀における事物・言葉・書物』勁草書房、2015年