【要約と感想】工藤勇一『学校の「当たり前」をやめた。』

【要約】学校が機能不全に陥っているのは、目的と手段を取り違えているからです。目的を適切に設定した上で、手段を合理的に取捨選択しましょう。必ず状況は良くなります。
たとえば、期末テストなどやめてしまえばいいのです。期末テストなんかやっても、学生は一夜漬けに勤しむだけで、本物の学力は伸びません。逆に、他の手段で学力が伸びるなら、期末テストなどやる必要はありません。
宿題も廃止しました。宿題など、学力を伸ばす上でなんの役にも立っていません。廃止したほうが、学力が伸びます。
期末テストや宿題にこだわる人は、単に目的を見失って、思考停止に陥り、前例にしがみついているだけです。学校が何のために存在しているのか、根本から考え直す時代が来ています。かつて学校は時代の最先端でしたが、むしろ今は最も遅れています。今の時代、そもそも学校など必要ないかもしれません。

【感想】文科省が校長先生に「学校運営=マネジメント」の力を要求するようになって、しばらく経つ。本書に示された諸改革は、いわばマネジメントのお手本のようなものかもしれない。まず「目的」を適切に設定した上で、PDCAの「C」を軸にサイクルを回す、というところが教科書的なわけだ。実際のところ、学校では、マネジメントの最重要ポイントである「目的を適切に設定する」ということが、なかなか難しかったりする。文科省や教育委員会から目的が降りてきて、主体的に判断する力が育ってこなかったからだ。まあ、学校そのものの問題というよりは、上から目的を押しつけてきた教育行政そのものの問題であるようには思うが。

とは言うものの、いよいよ学校が独自のマネジメントを要求される時代に入ってしまったわけで、力が育っていないと嘆いている場合ではない。これを好機と捉えて文科省や教育委員会の圧力から離れて独自路線を行くか、従来通り上から言われたことを下請的にこなしていくのか、時代の分かれ目である。主体的な力を発揮する学校と、言われたことしかやらない学校で、これからますます格差が拡大していくことになるだろう。いやはや。

【今後の研究のための備忘録】
学習指導要領に対する苦言が現場の校長先生から発せられていることが興味深い。

「すでに2018年度から先行実施されている新しい学習指導要領は、「社会に開かれた教育課程」を標榜しています。(中略)しかし、学習指導要領の存在自体が、教員の自由な発想を忘れさせて、「社会に開かれた教育課程」の阻害要因となっているのは、何とも不思議なことではないかと思います。」74-75頁

学校評価に対するコメント(158-159頁)も、上から基準を設定することの無意味さやバカバカしさを指摘していて、なかなか要点を突いている。

またあるいは、教育のサービス化に対する苦言も、興味深い。

「しかし、現状の学校と保護者の関係を見ると、保護者が「消費者」、学校が「サービス事業者」と化しているような状況が見受けられます。保護者のクレームを真に受けて対応した結果、子どもが自律する機会が失われてしまったこともあるはずです。(中略)自身に当事者だという意識があれば、文句を言うより先に「どうすればよいか」を考え、行動を起こします。逆に、当事者意識がないと、「お客様感覚」で何か不都合が起きると、自分ではない周りの誰かのせいにしようとするものです。」152-153頁

ここから「コミュニティ・スクール」の必要性へと話が展開していく。これからの公教育は、学校だけが担うのではなく、大人たち全員が責任を持って進めなければ成り立たないと、私としても思う。

全体的な思想背景としては、「近代の終わり」が強烈に自覚されている。「近代」には学校の存在価値について疑問が持たれることはなかったが、「近代の終わり」に際しては、学校の存在価値が失われるという時代感覚である。これからの学校は、「近代の終わり」に対応して、変わっていく必要があるという認識である。学校改革で打った手が有効かどうかは、最終的にはこの歴史認識が適切かどうかに関わってくるのであった。

工藤勇一『学校の「当たり前」をやめた。生徒も教師も変わる!公立名門中学校長の改革』時事通信社、2018年