齋藤孝『なぜ日本人は学ばなくなったのか』

【要約】日本人はバカになりました。教養を尊重しなくなり、読書をしなくなりました。それもこれも、戦後にアメリカ化して、くだらない音楽にうつつを抜かすようになったからです。またあるいは、新自由主義が格差を拡大して、底辺層が希望を持てなくなったからです。終身雇用のころは、よかった。
骨太の読書をして、教養を取り戻しましょう。さもないと日本はバカばっかりになって、滅びます。

【感想】ドン・キホーテのような気高さと滑稽さを同時に感じる本ではあった。気高いのは、いい。自分自身の教養を高めるために、大量に古典を読み、刻苦勉励、努力をし続けるのは、とても格好いい。というか、私もその価値観に連なるものである。岩波文庫を読みこなすのは、知的な快感である。誰に言われなくても、勝手に読ませていただく。
が、一方で、音楽をコキ下ろしたりなど、他の価値観を認められないのは、格好わるい。矢沢永吉に対しても同じことが言えるのか。現代の若者の良さを信じられないのは、格好わるい。

結局著者が「教養一元論」的な価値観を推奨するのは、単に著者が教養一元論的なモノサシで「強者」だからにすぎない。そのモノサシで「弱者」の人は、自分の立ち位置を有利にすべく、そのモノサシで勝負することを避け、別のモノサシを持ちだしてくるに決まっている。そしてどちらのモノサシが勝つかは、単に、パワーゲームで決まる。どちらが正しいかどうかという問題ではない。そして本書は、価値観のパワーゲームで教養一元論者が勝利を収めるべく投入された資源なのだろう。しかしまあ、同じ価値観にあらかじめ同調している人には歓迎され、そうでない人には貶されるだけに終わるだろう。

あるいはこういう物言いが「相対主義」に過ぎないというのであれば、「絶対」の根拠がどこにあるかが説得力を持って示していただく必要がある。本書は、ただ「決断主義(わたしはこう信じる)」と「保守主義(むかしはよかった)」と「便宜主義(頭がいい方が得をする)」を示しているに過ぎない。論理的説得力なし。教養一元論が「絶対的」に優れていることは、本書では論理的に示されていない。相対主義的な感想を持つのは、私のせいというよりは、本書の論理的欠陥であるように思う。

とはいえ、著者のようなドン・キホーテが奮闘すること自体には、なんの問題もない。ドン・キホーテがある種の感動を生んだように、初志貫徹・首尾一貫・言動一致で突き進めば、賛同者も地道に増えていくことだろう。価値観を共有するという点では、論理的な精緻さよりも、こういった情熱と熱意のほうが、おそらく大切だ。著者が言うところでは「祝祭」か。

【言質】
「人格」の用法についていくつかサンプルを得た。

「読書とは、自分の中で行なう、偉大なる他者との静かな”対話”です。これによって、判断力や粘り強さといったものを身につけることができます。「情報」ではなく「人格」として書物を読む習慣を身につける。平凡なようですが長い目で見たとき、これが現状に対するもっとも根本的な解決法であると思います。」190頁
「「本を読んでいないと恥ずかしい」、「教養がないと人格まで疑われる」。そんな圧力が、かつての日本社会にはあった。」213頁

「人格として書物を読む」というのは、なかなか興味深い言い回しではある。しかし、大半の読者には意味が通じていないのではないか。噛み砕いたほうがよかったのではないかと愚考する。

齋藤孝『なぜ日本人は学ばなくなったのか』講談社現代新書、2008年