【要約と感想】平田オリザ『わかりあえないことから―コミュニケーション能力とは何か』

【要約】コミュニケーション能力が注目されていますが、それは人格とはまったく関係がないただの技術や習慣であって、むしろ環境整備によってなんとかするべきものです。
 人間同士がわかりあえるというのは、幻想です。「会話」と「対話」は違うものです。これからは、お互いがわかり合えないことを前提にしながら共通点を探り出し、新たな落としどころを見つけられるような、「対話」のスキルを磨いていきましょう。

【感想】昨今、「コミュニケーション能力」がやたらともてはやされて、学生の中にも「私はコミュニケーション能力が高い」と言っちゃうのがいるけれども、まあ、たいがいは企業も学生も単に勘違いをしているだけだろう。彼らが言うコミュニケーション能力とは、実際のところはだいたい「空気を読む能力」とか「忖度する能力」とか「単にノリがいい」ことを意味しているわけだが、もちろん本物のコミュニケーション能力とはそんなものではない。コミュニティが崩壊して従来の「通俗道徳」が通用しなくなったときに、「誰もが合意できるルール」つまり「公共」を作り出す時に必要となる対話の力と意志こそが、「コミュニケーション能力」の本質だ。同じ価値観の枠の内側で盛り上がる力ではなく、異なる価値観の間で対話を続ける努力だ。既存のルールに無条件に従う能力(協調性)ではなく、未知のルールを発見し創造する能力(社交性)だ。そんなわけで、「わたし、コミュニケーション能力あるんだ」と言っちゃう奴ほど、実はコミュニケーション能力がなかったりする。

 とすれば、それはカントが言っていた実践理性の力でもあるように読める。つまり、自己と他者をかけがえのない「人格」として承認することから始まる力である。「個」として自律することから始まる力である。コミュニケーション能力とは、決して集団に溶解する力ではない。スピノザの言うモナドである。
 などと思っていたら、著者はそうではないと言う。確かなアイデンティティなどというものは存在しないということらしい。スピノザでもカントでもない(つまり近代ではない)形での「個」を想定しているようだ。しかし、そんなもの可能なのだろうか? やはり最終的に集団に溶解してしまうだけなのではないだろうか。そのあたりの問題は、「人格」という言葉の用例に端的に見ることができる。

 ところで「100分de名著」の中江兆民『三酔人経綸問答』回の案内役が平田オリザで、不勉強にも意外に思ってしまったが、実は平田の卒論のテーマは中江兆民だったらしい(対象は『三酔人経綸問答』ではなく『一年有半』)。中江兆民についての研究を重ねてきているのであれば、「対話」についてもかなり深まっていると信頼していい気はしたのであった。

【言質】
 「人格」の用例サンプルをいくつか得た。

「ここで求められているコミュニケーション能力は、せいぜい「慣れ」のレベルであって、これもまた、人格などの問題ではない。」(37頁)
「日本の学校の先生方は真面目だから、どうもコミュニケーション教育と人格教育を混同しがちになる。」(147頁)
「ナイフとフォークがうまく使えるようになったところで人格が高まるわけではない。人格の高潔な人間が、必ずナイフとフォークがうなく使えるわけでもない。マナーと人格は関係ない。」(149頁)

 うん、なるほどという用例ではある。おそらく私が思う「人格」と、著者が言う「人格」は、中身がそうとうにズレている。まあ、本書の趣旨から言えば、どっちが正しいとかそういう問題ではなく、ここから「対話」が始まる「ズレ」ということになるだろう。

本当の自分なんてない。私たちは、社会における様々な役割を演じ、その演じている役割の総体が自己を形成している。
演劇の世界、あるいは心理学の世界では、この演じるべき役割を「ペルソナ」と呼ぶ。ペルソナという単語には、「仮面」という意味と、personの語源となった「人格」という意味が含まれている。仮面の総体が人格を形成する。」(219頁)

 この文章は、やはり私の価値観からは承認しにくい異物を含んでいる。私の考える「人格」とは、「役割の束」ではなく「責任の束」である。「本当の自分」とは、世界の中で果す役割などではなく、「まさにこの私にしか引き受けられない責任の主体」に他ならない。この「責任」という概念を溶解させてしまうような人格概念は、私の価値観から言えば、極めて危険である。
 つまり論理的かつ倫理的な問題は、著者が言う「役割の束としてのペルソナ」から、果たして「責任」とか「人権」という概念が生じ得るかどうか、ということになる。いかがだろうか。

平田オリザ『わかりあえないことから―コミュニケーション能力とは何か』講談社現代新書、2012年