【要約と感想】佐藤佐敏『学級担任これでいいのだ!先生の気持ちを楽にする実践的教育哲学』

【要約】先生が一人で頑張ってもうまくいくわけないし、逆に頑張らなくてもうまくいくことが往々にしてあるので、そんなに肩肘張らずにいきましょう。個性なんて、ないならないで困らないし。自己実現も、別に求めなくていいんじゃない? 一貫性なんて、そもそも無理。最初から「無理」って言っとけば、子どもも先生も楽になりますよ。

【感想】これ、「哲学」じゃなくて、「エッセイ」だなあ。まあ、別にどっちでもいいんだけど。
感心したのは、教育のサービス化という厳しい現実から「教師の勤労意欲が大事だろ」(155頁)という命題を導き出す流れ。いやほんと、まさにそれ。もっと声を大にして言っていただきたいし、主張していきたいところなのだった。

【個人的研究のためのメモ】
人格とか個性とか、用法サンプルをいろいろ収集できたのだった。

「師弟の間に甘い時間が流れます。しかし、教師はそれに酔ってはいけませんよね。人格の完成を目指すのが教育です。子どもとの距離の近さに不感症になってはいけません。」(56頁)

お、こういう文脈で「人格の完成」(教育基本法第一条)が使用されるのか、とニヤリとしたのだった。生徒が先生のことを忘れるくらいが「人格の完成」の目指すところという、なかなか含蓄のある話だ。
またあるいは「個性」について。

個性を煽られたくないのだ(個性という概念の弊害)
一九九〇年代から最近まで、「個性の伸張」が大きな教育課題でした。
学校はこぞって「個性を伸ばす教育」「を生かす教育」といった研修主題を掲げていました。(中略)
しかしながら、最近個性を伸ばすことの弊害もまた指摘されるようになりました。(中略)
これまで私たち教師は、子どもたちに対して「自分らしさを大切に」「あなたの持ち味を活かして」と語ってきました。実は、私もそう語ってきました。それがかえって子どもたちを息苦しくしているとなると、大変に難しい時代に入ったと言えそうです。
自分らしさを追究して途方に暮れている子どもがいたら、「個性なんて、いらないよ」(ちょっとオドけて)「だいたい、先生であるオレ自身、個性なんてないから」「オレみたいな先生、世の中ごまんといるしね」と言ってあげたいものです。」(123-126頁)

まあ、ナルホドねという感じではある。が、哲学的に言えば「個性」という概念を極めて表層的に捉えている言葉ではある。とはいえ、著者が悪いというよりは、日本全体が「個性」という言葉を薄っぺらく表層的なものにしてしまった結果とも言えなくはない。21世紀初頭の「個性」をめぐる雰囲気を言い表わしている文章として、なかなかいいサンプルなのかもしれない。

佐藤佐敏『学級担任これでいいのだ!先生の気持ちを楽にする実践的教育哲学』学事出版、2013年