【要約と感想】岡本富郎『子どものいじめと「いのち」のルール』

【要約】保育や教育で最も重要なことは「いのち」の教育です。しかし日本では経済的効率が優先され、いのちの教育がないがしろにされています。「いのち」とは、単なる生物学的な生命ではなく、もっと大きなもの(宇宙など)と繋がった根元的なものです。いじめをなくすために決定的に重要なのは「いのち」を大切にする心であり、それを育む愛です。自分のいのちを愛し、同様に他人のいのちも愛せることこそ、教育基本法が目指す「人格の完成」の中身です。

【感想】本文中では出てこない固有名詞だが、「いのち」の教育というと、やはりディルタイとかシュプランガーといった「生の哲学」とか、あるいは大正生命主義を想起してしまうのであった。この「いのち」という概念に著者が相対する態度は、私が「人格」概念に相対する際に見習うべきものだと思った。

【個人的研究のためのメモ】
教育基本法や「人格」に関する言及があって、私の関心と響き合うものがある。

「「教育基本法」第1条には教育の目的が次のように書かれています。
「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行なわれなければならない。」
まずここで考えたいことがあります。ここには、教育の目的が「人格の完成を目指す」と記されています。このことはとても大切です。教育の目的は、知識の取得や高学歴を得ることとは書かれてはいません。就職のためとも書かれていません。「人格の完成を目指す」と書かれているのです。そこでですが、この「人格の完成を目指す」とはどういうことなのでしょうか。ここでいう人格は、人間としての倫理的な在り方を指します。もっとわかりやすくいうと人間として善い人を目指す、ということです。
そこで、善い人間とはどういう人のことをいうのでしょうか。わたしは「自分を愛するように、人をも愛する人」のことだと考えます。「自分のいのちを愛し、人のいのちをも愛する人」のことだと考えます。教育はこのような人間になることを目指して行なわれなければならないのです。」(11-12頁)

「ここに記されている人格の内容は倫理学的な内容です。つまり人格は変化しないのではなく、完成に向かって高まっていく内容として考えられています。そしてこの人格の中心を私は「愛」だと思っています。愛自体の定義は多くあります。私は私なりに「愛とは、生きとし生けるものの幸せを願うところの絶対無償の受容であり、その受容に基づいていのちを捨てることである。」と考えています。」(29頁)

「そして「いのち」は人を人として支える大本、大きな宇宙的な支えといってよいでしょう。」(75頁)

「人格」の中心に「愛」があることの確信など、聞くべきものは多い。そして「いのち」という概念は、ほぼほぼ「人格」という概念と重なってくる。

「まず「いのちとは何なのか」ということについて考えましょう。先にもいったように、私たちは誰もがいのちをもっていると普通考えます。あたり前のこととしてそう考えます。しかし、いのちとは誰もが「これがいのちです」と答えられるものなのでしょうか。まずいのちは見えるのでしょうか。触ることができるのでしょうか。そして、いのちがなくなると人間はどうなるのでしょうか。
見えるいのち、触ることが可能ないのちはどこにあるのでしょうか。そしていのちは誰にも共通してあるものなのでしょうか。違いや位、高さ低さなどはかんがえられるのでしょうか。
こう考えてくると何かしら、いのちが何であるかということはそう簡単ではないように思えてきます。」(58-59頁)

ここで著者が展開している「いのちとは何なのか」という問いは、私が10年前から大学の講義で語っている「人格とは何か」という問いとほぼ重なる。ほぼ同じことを考えている人がいるということを知り、感慨深いというか、「そりゃそうだろ」というか、意を強くしたのであった。

岡本富郎『子どものいじめと「いのち」のルール―いのちから子育て・保育・教育を考える―』創成社新書、2009年