【要約と感想】戸田忠雄『学校は誰のものか―学習者主権をめざして』

【要約】学校選択制にすれば、教育問題はすべてかたづきます。

【感想】すでに故人となっている著者の発言に対して厳しいことを言うのは恐縮ではあるが、思ってしまったので、書く。本書の内容は、論理矛盾が甚だしく、自己撞着に陥っていて、極めて問題が多い。決定的に問題なのは、「学習者主権」をタイトルに掲げているにも関わらず、実質的にはまったく「学習者主権」に向かっていないところだ。具体的には、著者は教育を「市場」に委ねれば「学習者主権」になると言っている。しかし「市場」と「主権」は、本質的にはまるで関係がない。もしも本当に著者が「学習者主権」を目指すのであれば、たとえば具体的には「教育委員会の公選制」を主張すればいいだけの話だ。しかしなぜか著者は「教育委員会の公選制」については検討の俎上に載せることすらせず、ひたすら「首長のリーダーシップ」ばかり主張する。論理的にまったく筋が通らない。だから、著者の中には「市場化」という結論が先にあって、「学習者主権」は後から付け足した言い訳のようにしか見えなくなるわけだ。
教育を「市場」に委ねるだけなら、「学習者主権」と言う必要はないし、言ってはならない。繰り返すが、「市場」と「主権」という概念には、論理的には何の関係もない。大雑把に言えば「市場」がなくとも「主権」は成り立つし、「主権」がなくとも「市場」は成立する。「市場=経済的自由」と「主権=政治的自由」は拠って立つところが根本的に異なっている。意図的かどうかは分からないが、「市場」と「主権」の違いを考慮に入れず、表面上は「政治的自由」を掲げながら実質的に「経済的自由」を滑り込ませようとするのは、結果的には欺瞞以外の何者にもならない。
「教育を市場に委ねよう」と言いたいのであれば、そう言えばいいだろう。確かに経済は経済(経世済民)としてしっかり検討する必要がある。教育の市場化についてメリットとデメリットを比較考量する作業は学問的にも実践的にも必要だろう。しかし単なる市場化の主張を「学習者主権」という美しい言葉で粉飾するのは、論理的にありえない。少なくともタイトルにつけてはいけない。「学習者主権」を謳いながら「学習指導要領の拘束性」や「教科書検定制度」などの政治的領域に切り込まないところに、欺瞞的姿勢が端的に表れている。

それから、本書内で足立区教育委員会が「競争」を持ち込んだことをやたらと褒めているが、本書が出た直後、その「競争」が原因となって学習者をないがしろにする詐欺的事件が発生してしまった。教育者倫理に照らして極めて残念なことではあったが、本書が語る理屈が現実には機能しないことを、事実が証明してしまったといえる。2000年から導入が進んだかに見えた学校選択制も、ここ10年くらいは離脱する自治体が増加している。市場論者の理屈どおりには物事が進まなかったという証拠だろう。
まあ著者が学校選択制導入に前のめりになったのも、著者が「高校」の校長経験者であって、小学校や中学校の事情に疎かったという可能性を考慮する必要があるのかもしれない。高校でうまくいく政策が、小学校や中学校でも同様にうまくいくとは限らないことを想像しなければならないのだった。

【今後の研究のためのメモ】
本書は「教育」の現状を批判するために、教育界隈のあり方を「宗教」になぞらえる。

「教育好きの国民にとって学校は、その本山であり教会のような存在だ。したがって、学校は「学校教」とでもいうべき宗教的な要素をたぶんにもっている。教師は教室の僧侶であり司祭であり、教科書という教典を使って国が作った教義を述べ伝えていく。道元は「正師を得ざれば学ばざるに如かず」(『学道用心集』)といっているが、学校教師は教員免許を与えたからこそ「正師」なのであって、塾とか予備校講師はいくら実力があっても「正師」ではないとされる。
学校教師は「正師」であるからこそ聖職者とみなされるのであり、同じことを教えても学校外教育機関たとえば塾やパソコン教室の講師は聖職者とはみなされない。学校教師は聖職者である以上、「信徒」である児童生徒・保護者など学習者側は、「先生」に無条件かつ全幅の信頼を寄せなければならない。信徒であるから先生を批判することなど、あってはならないこと。先生への絶対の尊敬と無条件の信頼がなければ、学校教育いや学校教は成り立たない。その背景として、日本にはユダヤ・キリスト・イスラムのような唯一絶対神の伝統がないから、容易に神の代わりに教師がこの世の権威になりやすい土壌がある。」(68-69頁)
「ふつうの社会人は信頼に値する仕事をしたことにより、評価され信頼されるようになるのであって、その逆ではない。こんな社会の常識が通用しない教育界は宗教の世界なのか、そして教師は文字どおりの聖職者なのか。教師だけに信頼と尊敬が先になされるべきだという以上、教職は聖職者に近い職業だといわざるをえなくなる。」(90頁)

注目すべきは、言っている内容が正しいかどうかというよりも、「教育」を「宗教」と比較する語り口であり、レトリックだ。「教育」を「宗教」になぞらえて語りたくなるような誘引がどこにあるかだ。
もしも教育界に起きている「宗教まがい」の現象を本当に理解しようと思ったら、おそらく著者のように一神教と比較するのではなく、「儒教の宗教性」について真剣に考察する必要がある。あるいは「教育」という言葉に含まれる漢字の「教」が、同様に「宗教」という言葉に含まれる漢字の「教」でもあるという厳然たる事実について真剣に考えるべきなのだ。そういう原理的な考察を怠って、単に「教育」を「宗教」になぞらえて揶揄した気持ちになっているようでは、「教育」に対しても「宗教」に対しても失礼な話だ。
まあ、「教育」を「宗教」になぞらえて語りたくなる欲求が表に現れた例としては、本書はひとつのサンプルにはなる。

戸田忠雄『学校は誰のものか―学習者主権をめざして』講談社現代新書、2007年