【要約と感想】オールポート『パーソナリティ 心理学的解釈』

【要約】心理学は人の心を一般的・抽象的に分析の対象として満足するのではなく、具体的な個人の心理を全体的に理解する総合的な手法の発展に努力するべきです。そのためには質問紙法と統計処理による特性の抽出では不十分です。一人の人間を全体的・総合的に理解するために、心理学は科学的手法の限界を越えてあらゆる手段を利用し、心理学の範囲を拡大していかなければなりません。

【感想】オールポートの仕事に関する教科書的な説明は、実際に本人の著作を読んでみるとまるで見当外れであることがよく分かる。一般的な心理学の教科書では、オールポートは「パーソナリティ心理学」の提唱者とされていて、彼の仕事がそのまま現在の特性論に引き継がれていっているような書き方になっていることがあるが、この本を読むとまるで正反対であることが分かる。オールポートの仕事は現在のパーソナリティ心理学の主流には引き継がれていないどころか、彼の意志と真逆の態度が幅をきかせていると言うことすらできそうだ。

オールポートは言う。

「心理学は一般性を求める法則のすき間からどこかへ、日常われわれが知るような個別の人間を失ってきた。」(475頁)

大学の心理学の授業の冒頭で心理学の先生が言いがちなセリフとして、「心理学を学んだところで、誰か特定の人の心理を理解することはできません」という類の言葉があるわけだが、もしも本当にそうだとしたら、いったい何のために心理学は存在しているというのか。オールポートの不満の源は、おそらくそういうところにある。どれだけ心理学を究めたところで、自分の目の前の一人の人間が分からないのであったら、その学問に何か意味はあるのだろうか。その疑問に対して「目の前の人間の心が分からない心理学にも存在意義はある。科学として一般的な人間の心を分析する心理学だ」と主張する立場はあるだろうけれども、オールポートはそう開き直りたくないわけだ。一人の人間を全体的・総合的に理解できてナンボ。そこから出てきたのが、抽象的・一般的・分析的な法則定立的心理学を超えて一人の人間の心理を具体的・全体的・総合的に理解しようとする特性記述的なパーソナリティ心理学だったということだろう。

そういう意図から、オールポートは先達の遺産を縦横無尽に博捜し、一人の人間を理解するための手法を吟味しまくる。よって、本書は一般的な心理学の範囲を超えて、哲学や文学や歴史学を視野に収めるような、極めて浩瀚なものとなった。この過程で、教科書に必ず掲載される「パーソナリティの定義」が導き出される。一般的な心理学の教科書では「定義」の結果しか抜き出してこないことが多いが、先達の遺産の博捜過程という美味しいところを全部そぎ落としてしまう、もったいなさすぎる愚行であるように思う。確かに個々の事例は古くなっていて、もはや参照には値しない部分が多いのも分かる。しかし彼が「パーソナリティの定義」を行ったのは、如何ともしがたい心理学の主流に対する批判を意図していたのであり、その批判精神そのものがいちばん重要なのであって、結果として表現された「パーソナリティの定義」自体は副産物程度の扱いで十分だろうと思う。そして彼の心理学に対する批判意識そのものは、おそらく現在でも有効だ。いや、ビッグ5みたいな数値的処理で以て最終的な解決なのだと主張して憚らない人々が出てきてしまう現在だからこそ有効とすら言える。古くなっていない。

とはいえ、じゃあ具体的にどう研究するかという時に、確固とした方向は実は見えてこない。本書では具体的にゲシュタルト心理学等の動向に期待が込められていたわけだが、もちろん最終的な解決策として提示されていたわけでもない。
彼自身が示している方向は、もはや通常の心理学の範囲を遙かに超えて、一人の人間そのものを理解するための学問となっている。オールポートは言う。

「それぞれのパーソナリティは、それ自体一つの法則なのだと(非常に正確に)いうことかできる。それは、各人の一生は、もし十分に理解されれば、それ自体が規則正しい必然的な発達過程を表わしている、ということを意味している。」
「法則性というものは頻度や画一性によるのではなく、必然性によるものである。それぞれの人の一生には、他の人の一生とは異なった必然的構造がある。」(476頁)

なるほど、法則定立的学問としての心理学を批判した先には、煎じ詰めていけば、どうしてもこういう結論が待っているだろう。オールポートの問題関心から言えば論理必然的に落ち着くところに落ち着いたと言えるわけではあるが、それでも本当にそれでいいのだろうか?とも思ってしまう。一人の人間を理解することがとても大切であること自体に異論があるはずもないが、ただ、その作業を学問的な手続きとして遂行しなければならないかどうかに対しては疑問が生じる。一人の人間をしっかり理解すると言うことは、学問的なプロセスを通じてではなく、ひとりひとりの人間が「生活」を通じて誠実に行っていくべきことではないのだろうか。学問にできることは、誠実な義務をサポートするための知恵を増やしていくことくらいだろう。学問そのものの手続きが一人の人間の必然的構造を明らかにしても、興味深いものにはなるだろうが、特別な意味があるかと言われると疑問なしとはできないだろう。

しかしこのあたりは、オールポートが著作の冒頭でディルタイの名前を出していることもあって、心理学を超えて人文科学全体に通じるような根が深い問題に繋がっていく。彼は問題提起でこう言っている。

「ディルタイとシュプランガーにより主張された二つの心理学(分析的と記述的)の場合、区別はあまりにも峻烈であった。二つの方法は、重複するもの、相互に助け合うものと見なす方がはるかに役に立つ。」
「個人に関する完全な研究は、両方法を含むであろう。」(18頁)

オールポートは、分析的な学問に偏った現状に対して鋭い批判を向けるために、ことさら記述的な手続きの重要性を称揚したとも言える。
分析的と記述的という二つの方法を「含む」ような、あるいは「相互に助け合う」ような方法で研究ができることは確かに理想的なのだろうが、具体的にどうすればいいのかはなかなか見えてこないところではある。心理学だけの問題ではなく、私が専門とする教育学でも極めて切実な問題である。

*6/11追記
分析的と記述的という2つの学問の区別は、しかしよくよく思い返してみれば、アリストテレス(ニコマコス倫理学)が言う「学=エピステーメー/知慮=フローネシス」の区別に直結する話ではなかったか。(このあたりはディルタイやシュプランガーの所論をしっかり確認しないと迂闊なことになってしまうわけだが…)
もしも「分析的/記述的」が「学/知慮」の違いに対応しているとするなら、アリストテレスの議論に従えば、それらの間にはそもそも重なる部分などまったくなく、完全に別の領域として扱うべきだという話になる。なぜなら、「学」とは普遍的で必然的なものに関わる理性の働きである一方、「知慮」とは「他のものでもあり得るようなもの」に関する判断力の問題であって、そもそも相手にしている対象が違っているからだ。「分析的/記述的」は、単なる方法の違いなどではなく、対象とするもの自体が異なっているわけで、そうだとしたら方法論の次元でどれだけ工夫したとしても根本的な解決などつくはずがない。
仮に「学/知慮」を繋ぐものがあるとしたら、これもアリストテレスに従えば「直知=ヌース」というものしかない。アリストテレスによれば、「学」のスタート地点にある根本命題は決して「学」そのものから導き出されるものではなく、「学」の外からもたらされる。「学」を成立させるには絶対に必要であるにも関わらず「学」自体からは絶対に導き出せないものを与えてくれるのが「直知」である。そして同様に、「知慮」を成立させるためには「究極的な個=絶対に二度とは繰り返して発生しない独自の事象」を認識することが必要となるわけだが、それを可能にするものこそが「直知」である。そんなわけでアリストテレスの議論に従えば「直知」こそが「学/知慮」を繋ぐものではあるわけだが、その「直知」なるものは「学」でもなければ「知慮」でもない、なにかまったく別の人間の能力に由来するものであって、オールポートの言う「分析的」であろうが「記述的」であろうが、学問的な手続きからは決してもたらされないものである。それこそ日常生活のなかで人々が普段から何気なく使用している「相手を理解する人間の力」としか呼ぶことができないものなわけだが、この「直知」の作用を「学」だろうが「知慮」だろうが学問の用語に翻訳することは、アリストテレスの所論に従う限りでは、最初からそもそも原理的に不可能なことである。カテゴリーがそもそも異なっているのだから、可能性自体がそもそもゼロなのだ。オールポートの狙いは、アリストテレスの所論を踏まえるならば、実は最初から原理的に不可能なものだったと言うしかない。
だとすれば、オールポートがするべき具体的な作業は、個々の心理学の業績を吟味することではなく、「学」と「知慮」が原理的に橋架可能であることを論理的あるいは具体的に示すことであったはずだ。「理想ではないもの」を羅列して批判するのではなく、どうしたら理想(「学」と「知慮」の橋架)を実現できるかを論理的に示すことであるはずだ。そしてその点に関し、本書に消化不良感が漂うことは否定できないわけだが、そもそもそんなことは「原理的に絶対不可能」である可能性をまず吟味すべきではないのか。
まあ、「個/普遍」は、心理学にかぎらず、きわめて根本的な問題ではある。オールポートの仕事は心理学という方法論から改めて「個/普遍」の問題を照らし出したものと理解すべきなのかもしれない。そして結局はアリストテレスの掌の上で踊っていたということが改めてわかっただけなのかもしれない。

G.W.オールポート『パーソナリティ 心理学的解釈』詫摩武俊/青木孝悦/近藤由紀子/堀正共訳、新曜社、1982年