「日新館」は、藩校です。
藩校というのは江戸時代の学校ではありますが、現在のように誰でも通える学校ではなくて、武士しか行けなかった学校です。農民が藩校で勉強することができないのはもちろん、武士の内部でも身分によって扱いに差が出るのは当然のことでした。
そして江戸時代の教育に関して一般的にあまり理解されていないのは、江戸幕府が日本全国に統一した教育体制を敷いていたわけではないということです。実際には、各藩が人材養成のために独自に教育を行っていました。(幕府から独立して行っていたのは教育だけではありませんが)
そして会津藩の「日新館」は、教員採用試験にも出てくるレベルの重要な藩校です。上の写真は、日新館に入る南門。
案内板には日新館の概略が説明されています。実はもともと今の場所にあったのではありません。本当は鶴ヶ城の近くに建っていたのですが、現在は場所を移動して復原されています。
会津藩校日新館が有名なのは、「什の掟」があったからです。「什」とは仲間という感じの意味です。ここで「弱い者をいぢめてはなりませぬ」という掟が定められており、現代のいじめ問題を考える際のヒントとして引用されることがあります。
ただ、「ならぬことはならぬものです」という強い掟が、後に会津藩の融通の効かなさの原因となり、幕末の悲劇に繋がってしまったかもしれません。なかなか難しいものです。
門の脇には、山川健次郎の銅像が建っています。
山川健次郎は実に立派な学者でした。専門の物理学で業績を残しただけではなく、東京帝国大学の総長として高等教育の世界でも活躍し、さらに幕末には国賊とされた会津藩の復権にも奔走しています。
さて、南門から日新館の中に入り、戟門の中から北側を臨むと、中庭の向こうに大成殿が見えます。大成殿の右奥はるか彼方に磐梯山が見えます。
案内板にもあるように、大成殿は儒教の祖である孔子を祀る宗教施設です。「學」の校というものが、現在のように単なる知識伝授の施設ではなく、本質的に宗教的な施設であったことを象徴する建物と言えます。
大成殿の内部。孔子像の前には、儒教を代表する宗教儀礼が再現されています。
大成殿は宗教施設であって、そこで儒教は行われません。戟門から東側の長屋で授業が行われていたようです。日新館ではリアルな人形によって授業の様子が再現されています。素晴らしい。まずは「素読(そどく)」が儒教の基礎基本ですね。
天文地理学も学びますが、単に科学的な知識だけでなく、宗教的な「うらない」や「暦」のためにも必須な素養となりました。
知識だけでなく、実践的な礼儀作法も学びます。
儒教という中国由来の学問だけでなく、神道や和歌なども学んでいたようです。「神道寮」の案内板に書いてある「垂加神道」というものが、会津藩や日新館の性格を考える上では重要かもしれません。
垂加神道を提唱したのが、山崎闇齋という学者です。日新館内に石像が建てられて顕彰されています。
案内板には山崎闇齋を「儒学者」と書いていますが、「垂加神道」の主唱者ということは記されていないですね。闇齋が会津松平家初代当主・保科正之に招かれて教育に当たっていることは、なかなか興味深いところです。
垂加神道は強烈な尊皇思想で貫かれており、水戸学等にも影響を与え、幕末には倒幕に繋がる尊皇思想の背景となります。佐幕の中心的存在であったはずの会津藩の出発点に、実は倒幕の種が撒かれていたことは、なかなかの皮肉です。
日新館にはプールもありました。
案内板によれば、日本で初めて造られたプールだそうです。
天文台跡に登って、日新館を見下ろすの図。鶴ヶ城と同じく茜瓦で葺かれていて、とても気持ちのいい空間になっています。本来あった場所だったら、鶴ヶ城天守閣が見えるんですけどね。
日新館敷地内では、自動販売機も日新館モードになっていました。やはり「什の掟」を推しているようで。
現代の教育とはまったく異なる近世の「學」に想いを馳せつつ、日新館を後にするのでした。
(2014年9月訪問)