【栃木県足利市】足利学校は日本最古の学校じゃないよね?

栃木県足利市の足利学校に行ってきました。
ちなみに足利学校、観光案内等では「日本最古の学校」と言い切っちゃっているけれども、本当に「日本最古の学校」かどうかは、極めて怪しいところです。というか、どう考えても「日本最古の学校」のはずはないので、特に教員採用試験を受ける人は誤解しないようにしておきましょう。「日本最古の学校」なんていい加減なキャッチフレーズを垂れ流さなくても、足利学校の価値が下がることはないのになあ。

さて、足利学校には門が3つあって、まずは一つ目の「入徳」の門に入ります。入徳門の先は有料エリアになっています。

さすが足利学校、マンホールの蓋にも「學」の字が刻まれています。

ちなみに足利市の町中のマンホールの蓋は、足利学校の「學校」の門がデザインされています。

さて、入校料を払って「杏壇」の門を抜けると、いよいよ「學校」の門が見えます。

白梅と紅梅の花が綻んでいて、春らしく気持ちよい気分になります。

「學校」の扁額。かっこいい。

学校門の案内板がありますが、ここは個人的には「学校」ではなく「學校」でいってほしかったところ。というのは、「學」と「学」は、単に形が違うだけではなく、意味が違ってくると思っているからです。そういえば古谷野敦も「芸」と「藝」の違いにこだわっていたけれども。

學校門を抜けると大成殿が見えます。ここには孔子と小野篁が祀られています。祀られているということは、宗教施設です。
この宗教施設が、近代学校と中世學校を分ける具体的な要素になってくると思います。つまり、「宗教的な背景」があるかないかが、「學」と「学」の違いに繋がります。中世の「學」には、宗教的な背景が色濃くまとわりついています。足利学校は、そのことがよく分かる、素晴らしい史跡となっています。

足利学校の創設者と言われる、小野篁の像。小野篁には様々な伝説がこびりついていて、足利との接点も皆無ですし、足利学校の創始者という伝説もかなりの眉唾ではありますが、いちおう一つの説として完全否定はできないという。まあ、伝説でしょうけれど。
が、気になるのは、小野篁創始者説と「日本最古の学校」というキャッチフレーズの整合性をどう考えているんだろうというところ。もしも小野篁が創設者だとすると、完全に足利学校は日本最古の学校ではなくなってしまうんですね。というのは、「日本最古の学校」とされる根拠は奈良時代の「国学」の遺制だったということなんですが、小野篁が創設者としたら奈良より後の平安時代に創建ということになってしまいます。小野篁創始者説と「日本最古の学校」というキャッチフレーズは、両立しないんですね。

ただ、「日本最古の学校」との絡みで問題になるのは、孔子像や孔子廟 との関係です。

大成殿には孔子の像も祀られており、「孔子像」としては日本最古である可能性があります。もしも学校が単なる教育施設ではなく、宗教的な儀式も行う「學」の校であるとすれば、足利学校は日本最古の「學校」ということになるかもしれません。日本最古の学校ではなく、日本最古の學校。

「学」と「學」の違いは、足利学校で行っていた実際の教育課程に明確に表れています。中世の教育課程がしっかり保存され、展示されているのが、極めて価値が高いところです。

(※2021年2/25追記 2/24の最高裁大法廷、那覇市の孔子廟をめぐる政教分離訴訟にて、孔子廟が宗教施設であると判断されました。教育史的に言えば孔子廟は間違いなく「學」の施設ですし、大雑把に言えばそれは宗教施設に当たります。が、現代における役割については地域の具体的な状況を鑑みて判断する必要がありますし、歴史学的に言えば「宗教」という言葉が西洋の翻訳語であって東洋における「教」とは概念の範囲が大幅にずれていることを踏まえる必要もあります。)

教育は、宗教施設である大成殿とは別の建物で行われます。

足利学校では儒教が教えられていましたが、中でも「易経」が重視されていたことが強調されています。この「易経」とは、いわゆる「うらない」というものを体系化したもので、儒教の体系の中でも最も神学的な背景を持つものであるように思います。神学的な背景を持つからこそ、単なる合理性を超えていく、学問の中でも一番の奥義でもあったわけです。この奥義を修得することが、足利学校で学ぶ最大の意義であったろうと思います。このあたり、近代以降の教育とはまったく方向性が違っていることは、前近代の「學」を考える上で極めて基本的な観点になります。あるいは、江戸期に新井白石や伊藤仁斎や荻生徂徠などが合理化した儒教とは、大きく異なっていることは忘れてはいけません。「學」の校とは、我々がイメージするような近代的な教育機関である「学校」とは違って、宗教的な背景を持つ機関なわけです。

さて、私が「日本最古の学校」というキャッチフレーズを気に入らない理由の一つは、これによって相対的に上杉憲実の功績が見えにくくなることです。足利学校は、ぜひ上杉憲実という名前とセットにして記憶されてほしいと思っています。

足利学校の片隅に、「上杉憲実公顕彰碑」が置いてあります。観光客は誰も見向きもしませんけれども。

顕彰碑の後ろに回ると、憲実の事跡が紹介されています。上杉憲実が足利学校の中興に尽くしたことが書かれています。というか、現在に続く足利学校の基礎を作ったのは、実質的には上杉憲実のはずです。

展示室にあった、上杉憲実像。足利学校だからこんな文人の格好をしていますが、実際には武人としても極めて有能な人物のようでした。永享の乱における大活躍など、関東戦国史を考える上で、最大のキーパーソンの一人です。上杉憲実が足利学校を再興し、重視したという事実は、足利学校の価値を考える上で極めて重いものです。「日本最古の学校」なんていい加減なキャッチフレーズに頼らなくとも、足利学校はとても素晴らしい史跡です。

方丈から北の庭を見る。梅がほころび始めて、春の雰囲気が漂ってきます。とても気持ちよいです。

そんなわけで、孔子様に学問成就のお祈りをして、足利学校を後にするのでした。

ちなみに入徳門に向かう参道ぽい路地の入口では、「足利學校」の石碑と孔子像がお出迎えしてくれます。
(2018年2/26訪問)