【埼玉県越生町】高取城と越生神社で関東戦国史に思いを馳せる

埼玉県越生町の高取城跡へ行きました。

高取城は、越生駅からまっすぐ西の方に見える山の中にあります。山腹までは舗装された道路がありますが、最終的にただの山道になります。

舗装路が終わって山道に入るところ。花粉が凄いよ。

というか、往復2時間強程度の、親子で楽しめる手頃なハイキングコースとして人気のようです。道は岩が露出してゴツゴツしていますが、坂もきつくなく、歩きやすいですね。私は実習指導訪問の後に寄ったので、ビジネスシューズで登山でしたが。

途中でハイキングコースと分岐して、高取城へ。明らかに人工的に造成されたとおぼしき平坦な場所に出ます。写真を撮っている場所はたぶん第二曲輪で、本曲輪を見上げています。

本丸跡には、神社がありました。扁額がないので詳細は分かりませんが、麓にある越生神社の奥宮のようです。

本丸はそれほど広くなく、非常時用の後詰の城か、物見櫓として利用されていたようです。大きなスダジイの根元には小御岳や浅間神社の祠もあって、戦国の世が終わった後は信仰の場となっていたようですね。

山を下りると、麓に越生神社があります。御祭神はスサノヲですが、明治後期の神社合祀令のために様々な神社がここに集められています。たとえば稲荷の祠は4社、狐の石像は4体ありました。祠も狐も、越生村各地から集められたのでしょう。
いま考えれば神社合祀令は野蛮な政策なわけですが、まあ、自然村から行政村へと地方行財政制度の再編成を目指す権力機構としては避けて通れない課題ではあります。こういうところに近代化の爪痕が残るわけですね。

神社にあった説明看板によると、越生神社の下方に越生四郎左衛門の屋敷があったようです。この越生四郎左衛門、太平記によれば、なんと北畠顕家を討ち取った武将のようです。ものすごいヒーロー(あるいは北朝の憎き手先)です。
遺構は、太田道灌と長尾景春の戦いの時期のものと見る説があるのですね。燃える。確かに鉢形城(長尾景春本拠地)から鎌倉に通じるルートを考えると、越生は地政学的に極めて重要な位置にあります。ここを押さえているのと押さえていないのとでは、まるで戦況が変わってきます。太田道灌ゆかりの地として名高いのも、地政学的な観点から、よく分かります。

南北朝から戦国期の関東戦国史の全体像を思い描きつつ、お土産に梅酢を買って越生を後にするのでした。
(2018年2/27訪問)