【青森県青森市】浪岡城は、中世東北のイメージを一新させる凄い史跡だ

 浪岡城は、弘前と青森のほぼ中間に位置します。青森から電車に乗って山を越えると津軽に出るわけですが、津軽平野の入口に位置しています。

 地図上の赤で示したところが浪岡城の位置です。航空写真で見ると、津軽平野の奥まったところに位置しているのが分かります。青森や八戸に抜ける交通の要衝であると共に、三方を山に囲まれて前面を川で塞ぐという、防御に適した要害の地であることが分かります。津軽平野に睨みを効かせるのに絶好の立地条件ですね。

 浪岡城が築かれたのは室町時代後期。北畠親房や顕家の子孫、浪岡北畠家の城です。京都から遠く北の果てにあるように思われますが、さすが名門北畠家だけあって、史跡からの出土品等を見る限り、かなり優雅な生活を送っていたように思われます。城内には商人や職人も居住しており、往時は一大城郭都市として繁栄していたようです。

 浪岡城は、大規模な開発に見舞われることもなく、堀や土塁や郭の跡が良好に残っています。たいへん見応えがあります。

 建物の跡もたくさん確認されており、大きな館であっただろうことが推測されます。

 広大な敷地に、たくさんの館があったようです。当時の繁栄の様子が偲ばれます。

 浪岡城全体図の案内板。浪岡側の北岸に広大な城館が築かれていたことが分かります。

 史跡にあった案内掲示によると、1578年に津軽氏によって滅ぼされたようです。東北中世の終わりの始まりですね。

 関係年表等からは、浪岡北畠家が朝廷から官位をもらっており、京都との深い繋がりが保たれていたことが分かります。

 「北畠古城跡」の石碑。

 城跡の近くには「青森市中世の館」という歴史資料館施設があります。展示はかなり充実していて、浪岡城の歴史的位置のほか、縄文時代からの発掘品が展示されています。
 平安時代の東北地方については、蝦夷征伐の経緯を中心に歴史教科書にも書かれていますが、鎌倉期や室町期の様子は教科書にも出てこず、なかなか様子が分かりません。浪岡城は、その教科書空白期間を埋めてくれる、たいへん興味深い史跡です。浪岡城からは中国製の青磁や白磁なども大量に出土し、室町期の浪岡がかなり栄えていた様子が分かります。

 その繁栄は今は見る影もなく、現在はただ堀と土塁の跡が残されているばかりです。
中世東北のイメージを更新して、浪岡を後にするのでした。
(2015年10月訪問)