【要約と感想】松下佳代編著『<新しい能力>は教育を変えるか』

【要約】21世紀に入る頃から、国内外を問わず、様々な形で「新しい能力」の育成を主張する教育論が現れ始めました。「新しい能力」とは、大量の知識を脳味噌に刻み込むような従来の教育とは違って、人間の内側に可能性として潜んでいる能力を引き出して、その能力を脱文脈的な普遍的状況で有効に活用することを目指す教育に、共通して見られる考え方です。しかしこの「能力」の提言は、人間の奥深に潜んでいたデリケートな部分まで掘り起こし、総動員して、経済活動に貢献させようとする企みをはらんでいる疑いがあります。「新しい能力」を市場原理に回収されることを避けるために、「知識」と「能力」の関係を様々な観点から改めて検討してみました。キーワードは「学力」と「リテラシー」と「コンピテンシー」です。

【感想】近年の「能力」ブームには既視感がつきまとう。教育の本質を「知識」の詰め込みではなく「能力」の育成だとする見解は、日本においても130年前の開発主義教育の主張に確認することができる。それは戦後教育改革以降の「系統主義/経験主義」の対立や、1960年代の学力論争にも確認できる。
もっと言ってみれば、「形式的陶冶」か「実質的陶冶」かという、教育学が伝統的に自問自答してきた議論が、またぞろ再燃したという趣はある。200年前にヘルバルトが「教育なくして教授なし、教授なくして教育なし」と主張して解決したかと思われた「形式=能力育成=教育」と「内容=知識付与=教授」の二項対立は、何度も何度も教育の最重要議論として浮上する。そして、現代の「新しい能力」論者の言っていることは、200年前にヘルバルトが主張した「多方の興味=形式陶冶」と「思想圏の拡大=実質陶冶」の両立という見立て、そしてそれを実現するための「中心統合法」という授業実践の提唱と比べた時、理論的には大して変わらないように見えてしまうのであった。「新しい能力」とか言っている人たちは、しっかりヘルバルトから学べば、得るものが大きいんじゃないか。特に「形式」と「内容」の総合という現代的課題に関するヒントは、ヘルバルトの論理に埋蔵されているような気がしてならないのであった。まあ、ポストモダンという文脈的な状況を考えると、ヘルバルトを改めて学んでいる場合ではないと言われそうではあるが。

ポストモダンの文脈ということでは、人間の能力を脱文脈的で普遍的なものと理解する個体主義的な発想は、私から見ると、RPG的な世界観を正確に反映しているように見える。RPGは、テーブルトークであってもコンピュータであっても、文脈とはまったく無関係に、キャラクターメイキングを行う。そこでは腕力とか知力とか運とかいった普遍的な「力」が、数値化された属性としてキャラクターに貼り付けられる。その「力」は、文脈に依存せず、普遍的な環境で威力を発揮する。どんな環境であろうと、パラメータが高いキャラクターの方が活躍する。翻って、現代においては、人間の能力も、脱文脈的にパラメータ化した属性として個人に付属すると把握される傾向にあるのではないか。
このRPG世界観というのがどのように登場してきたかは、研究していないので分からない。現代的な「新しい能力」の発想が先に生まれ、RPG的想像力がそこから派生したのか。それともRPG的世界観がなんらかの説得力を持ち、その認識枠組が現実世界に影響を与えたのか。いずれにせよ、人間を評価する時に「スペックが高い」と表現するような御時世には、生のリアルとRPG的世界観の親和性が極めて高いことは間違いない。「新しい能力」を育てようというプロジェクトにマイクロソフトとかが関わっているのを見ると、クエストを消化して経験値を貯めてレベルアップしパラメータを上昇させるというRPG世界のプレイが、あたかもリアル世界の教育でも可能であるかのように考えているのではないかと、多少は不安な気持ちになる。ともかく、「キー・コンピテンシー」とか「21世紀型スキル」など、いわゆる「新しい能力」として提示されている能力のセットが、ネットゲームで勝利を獲得する上で極めて重要な能力であることは、間違いないところである。

まあ、そういう個人的な感想は別として、本書はとてもよくできている。歴史的な経緯をふまえた上で分かりやすく論点を整理しており、インスピレーションの源となるだけでなく、読書案内も充実していて、本当に勉強になる。様々な立場の本や論文が引用するのも納得だ。新学習指導要領が出た後も、まだ古くなっていないように思う。

松下佳代編著『<新しい能力>は教育を変えるか 学力・リテラシー・コンピテンシー』ミネルヴァ書房、2010年