【要約と感想】齋藤孝『新しい学力』

【要約】文部科学省の方針には疑問を感じます。確かに時代は急激に変化しており、問題解決能力の育成は必要です。しかし、それは従来からの地道な学びの過程を否定しては成立しません。もっとも重要なのは、物事をやり遂げる意志の力であり、総合的な人間力です。

【感想】ざっくり言えば、文部科学省の学習指導要領改訂の方向性に疑問をぶつけている本だ。著者は昨今流行している21世紀型の教育(問題解決学習やアクティブ・ラーニング)に疑問を呈し、伝統的な教育は意義を失っていないと主張する。その根拠は大まかには4つある。
一つ目は日本の現状の学力(PISA調査による)がそんなに低くないという事実。あるいは最先端の教育方法を導入しているわけではない(と著者が言う)東アジア諸国の学力が一様に高いことである。旧式の教育のほうが学力がついているのではないかという疑問を著者は述べている。
二つ目は、日本の歴史に照らしてみて、明治維新にしろ戦後復興にしろ、中心となった有能な人材は古臭い教育によって作られたという事実である。著者は、時代の変革者であった福沢諭吉や渋沢栄一の人格の土台を作ったのは漢学の素養であったと言う。古臭い「型」の教育は現代においても有効だと主張する。結果、結論において「素読」を声高に主張することとなる。
三つ目は、かつての同じような試みがことごとく失敗しているという認識である。デューイの新教育も数年で終わっているし、大正新教育も限られた範囲での流行に過ぎなかった。あるいは近年の「総合的な学習の時間」も無残なことになっている。これらの同様事例の失敗から何も学んでいないのではないかという指摘である。
四つ目は、著者自身の経験から、子供たちを放任したら自主的に勉強することなどあり得ず、一定程度の強制の下で知識をしっかり身につけなければ問題解決もイノベーションも起こらないという主張である。総合的な人格の土台が作られていない限り、問題解決的な学習をやっても身につかないと言う。結果、精神論的に「意志」を涵養することの重要性を説くこととなる。教師にとって大事なのは「情熱」を伝えることだと言う。

まあ、その主張それぞれだけ見れば「そうかもね」となりそうだが、ちょっと吟味してみると、いろいろ怪しいところが出てくる。
たとえば著者が「伝統的な教育」と言ったとき、そこに福沢諭吉や渋沢栄一を例として持ち出すのは適切ではない。文部科学省が転換しようとしているのは、福沢や渋沢の後に明治政府が導入した「19世紀型の一斉教授法」である。福沢や渋沢が受けていたのは「17~18世紀型の個人教授」である。時代遅れと問題となっているのは、産業革命によって初めて登場した安価で即席に大量の労働者育成を目論んだ「一斉教授法」の延長にある教育であるはずだ。これをひっくるめて「伝統的な教育」と呼ぶのは、明らかなミスリーディングだ。「伝統的な教育/産業的な教育/ポスト産業的な教育」を明確に分類した上で議論を進めなければならない。
あるいは、東アジア諸地域が日本と同じような「伝統的教育」に終始しているという認識は、本当か? 確かに1990年代まで、東アジア諸国は日本の近代化モデルを参照していたかもしれない。しかし冷戦崩壊後のグローバル化の急速な流れの中、東アジア諸国はもはや日本をモデルとはしていない。東アジア諸国はいち早く21世紀型の教育に転換したとの指摘は多方面でされているはずだ。日本は、世界的な流れから取り残されて、「ガラパゴス化」していると認識した方が良い。その上で、その是非を考えなければならない。教育の世界でいつまでも日本が東アジアの中でリーダー的な存在だと思っていると、客観的な世界情勢を見失う。本書の見方も、危ういように思う。40人学級のような時代遅れなことを続けながら、精神論で片がつくと思っているなら、たぶん、日本はもう一度負ける。

まあ、著者が言いたいことはわからなくもない(私も文部科学省の方針に全面的に賛成のわけではない)し、教育に対する熱意や情熱自体を否定するものではない。著者が大学で行っている実践には、学ぶべきものがたくさんある。今は、多方面から知恵を出し合い、実践を積み重ねていくしかない。

斎藤孝『新しい学力』岩波新書、2016年