教育学Ⅱ(龍ケ崎)-5

■龍ケ崎キャンパス 11/6(月)

前回のおさらい

・どうして授業中にスマホをいじるのか?
・どうしてまともに授業を聞く気がないのか?←どうやら聞くか聞かないかは自分で決めるらしい。
・どういう基準で聞くか聞かないかを決めるのか?←「明確な知識」なら聞く。
・「明確な知識」とは何か? 数学の定理や物理の法則のことか?←違う。「人間とは何か?」のように答えが複数あるものは明確な知識ではないらしい。
・なぜ答えが複数あるものは「明確な知識」ではないのか?←人によって答えが異なるので、どうとでもなる。
・それは本当のことか。根拠は何か?←「こんなことして意味あるんですか?」

意見の吟味

・「明確な知識」とは何か? それはどういうものか? 仮にそれがあるとして、どうやって手に入れるのか?
・「答えが複数あるものは考えても意味がない」という意見は本当か? その考えが正しいという根拠はあるのか? 誰にとって「意味」があり、あるいはないのか? そもそも「意味」の意味とは?

文部科学省が目指す大学教育

・「答えがない課題」に最善解を出す。

文部科学省が目指す道徳教育。

思春期にかかる中学生の発達の段階においては、ふだんの生活においては分かっていると信じて疑わない様々な道徳的価値について、学校や家庭、地域社会における様々な体験、道徳科における教材との出会いやそれに基づく他者との対話などを手掛かりとして自己との関わりを問い直すことによって、そこから本当の理解が始まるのである。また、時には複数の道徳的価値が対立する場面にも直面する。その際、生徒は、時と場合、場所などに応じて、複数の道徳的価値の中から、どの価値を優先するのかの判断を迫られることになる。その際の心の葛藤や揺れ、また選択した結果などから、道徳的諸価値への理解が始まることもある。このようなことを通して、道徳的諸価値が人間としてのよさを表すものであることに気付き、人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念に根ざした自己理解や他者理解、人間理解、自然理解へとつながっていくようにすることが求められる。(『学習指導要領解説 特別の教科道徳編』14~15頁)

文部科学省が考える「人間とは何か?」

人間にとって最大の関心は、人生の意味をどこに求め、いかによりよく生きるかということにあり、道徳はこのことに直接関わるものである。
そもそも人生は、誰かに任せることができるものではない。誰かの人生ではなく一人一人が自分自身の人生として引き受けなければならない。他者や社会、周囲の世界の中でその影響を受けつつ、自分を深く見つめ、在るべき自分の姿を描きながら生きていかなければならない。その意味で、人間は、自らの生きる意味や自己の存在価値に関わることについては、全人格をかけて取り組むのである。
また、人間としての生き方についての自覚は、人間とは何かということについての探求とともに深められるものである。生き方についての探求は、人間とは何かという問いから始まると言ってもよい。人間についての深い理解なしに、生き方についての深い自覚が生まれるはずはないのである。言い換えれば、人間についての深い理解と、これを鏡として行為の主体としての自己を深く見つめることとの接点に、生き方についての深い自覚が生まれていく。そのことが、主体的な判断に基づく適切な行為の選択や、よりよく生きていこうとする道徳的実践へつながっていくこととなる。(『学習指導要領解説 特別の教科道徳編』16~17頁)