【要約と感想】プラトン『プロタゴラス』

【要約】徳とはどういうものかについて話し合いましたが、満足な結論には至りませんでした。

【感想】おおまかには議論の柱は2つある。一つは「徳は教えられるか」、もう一つは「徳は一つか」。一つ目の論点では、ソクラテスは「徳は教えられない派」で、プロタゴラスは「徳は教えられる派」だった。二つめの論点では、ソクラテスは「徳は一つ派」で、プロタゴラスは「徳はたくさんある派」となった。しかし「徳は一つ」を突き詰めるうちに、いつのまにかソクラテスは「徳は教えられる派」となってしまって、当初の立場と矛盾することになってしまった。

本書の結論は、一見、ソクラテスもプロタゴラスも同じく自己撞着に陥ってしまったように見える。が、議論の枠組みとして、「善と快」が同じものであるという前提のもとに議論が進められたことが、そもそもの問題となる。プラトンの他の著書では、「善と快」は別のものとして話が進むからだ。だから、本書で「善と快」を同じものだとした前提自体が問われなければならないように思う。表でまとめると、次のようになる。

論点ソクラテスプロタゴラス
徳は教えられるか徳は教えられない徳は教えられる
徳は一つか多様か徳はひとつ徳は多様(特に「勇気」が別物)
善と快は同じか同じ同じ
善と快が同じなら徳はひとつ徳はひとつ(と認めざるをえない)
徳がひとつとすれば徳は教えられる(当初の立場と矛盾)「徳は多様」とした立場が矛盾する
しかし善と快が一致しないなら徳がひとつかも、教えられるかどうかも、わからない「徳は多様」とした立場は守れるが、「徳は教えられる」という立場は守れない

もしも「善と快が同じもの」という前提を外してみると、ソクラテスの立場では「徳が教えられるかどうか分からない」ことになるのに対し、プロタゴラスの立場は矛盾に陥ることになりそうだ。だから、「善と快が同じもの」という前提を外したところから、本当の議論は始まる。善と快の関係に対する探求はたとえば『ゴルギアス』で展開されるだろう。

またあるいは、「徳が知識なら教えられる」とソクラテスは簡単に言うが、それは本当だったか。その場合の「知識」とはどういうものかが、本書では明らかになっていない。知覚と経験の積み重ねによって辿り着くことが可能な「知識」なのか、それとも知覚と経験を超えたところにある「知識」なのか、はたまたそれすら超えて論理の「深淵」を飛び越えて初めて到達できる「知識」なのか。その課題は『メノン』や『国家』で徹底的に吟味されることになるだろう。たとえば『メノン』では、ソクラテスは「人間の行為が正しく立派になされるのは、ただ知識によって導かれる場合だけではない」(96e)と言って、「徳が知識なら教えられる」(89d)という命題を若干ばかり修正している。

そういう意味で本書は、弁論術との真の対決を前にした、前哨戦に過ぎない。ソクラテス自身が「どうかプロタゴラス、私があなたと問答をかわすのは、私自身がいつもいきづまっている問題をくわしく考察しようとすること以外に、何か他意があるとは思わないでください」(348c)と言っているように、いつも行き詰まっている問題を考察したところ、やはり行き詰まったという話である。

とはいえ、本書でのソクラテスの議論の運びは、あまり感心しない。「対偶」を採るべきところで「逆」を採ってプロタゴラスに窘められたり、矛盾律を拡大適用したり、過度な一般化を行ったり、論理学的にはいかがなものか。詭弁と呼んでいいレベルの言いがかりに見える。このあたりも消化不良の感を強くする。他の著書に見えるような爽快感は、ない。

*9/17後記
詭弁の一つは、正義というものはそれ自体が「正しいもの」であり(330c)、敬虔というものはそれ自体が「敬虔であるもの」(330d)という物言いにあるように思う。「自己同一」を過度に要求する詭弁とでも言うべきか。「水という概念」が「水自体」とは全くことなる「もの」であるように、「正義というもの」は「正義自体」とはまるで異なるはずだ。ここで生じたズレが、最終的には決定的な亀裂となる。

とはいえ、その観点は眼鏡っ娘論に大いに示唆を与える。「眼鏡っ娘の概念」は「眼鏡っ娘そのもの」とは異なる。とすれば、「眼鏡っ娘の概念」は必ずしも眼鏡をかけている必要はない。いや、おそらく眼鏡はかけていない。プラトンの言葉で言い直せば、「眼鏡っ娘のイデアは眼鏡をかけていない」となる。つまり眼鏡っ娘にとって「眼鏡」は本質的ではないということだ。逆に、眼鏡をかけているからといって必ずしも「眼鏡っ娘」と呼ぶべきではないということにもなる。

プラトン/藤沢令夫訳『プロタゴラス―ソフィストたち』岩波文庫

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」