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【要約と感想】渡部信一『日本の「学び」と大学教育』

【要約】90年以降の大学改革の流れで、FDとかPDCAとかeポートフォリオとかアクティブ・ラーニングとかが導入されましたが、それらは所詮は西洋近代の延長線上にある工学的アプローチに過ぎず、原理的な限界があり、このままでは時代の変化(グローバル化、予測不可能化、デジタル化)に対応できず、大学は滅びます。重要なのは、曖昧で複雑なものをそのまま総合的に理解することであり、状況や環境との相互作用であり、具体的で現実的な文脈を伴った身体性であり、決まった一つの答えを出すのではない「良い加減」です。これを取り戻すためには、最新の認知科学の知見を踏まえると、日本の伝統的な「学び」が極めて有効です。

【感想】御多分に漏れず、私もPDCAとかアクティブ・ラーニングの掛け声に巻き込まれているわけだが。それら工学的アプローチの限界を認知科学の立場から明らかにしてくれたのは、とても心強い。代替案として「日本伝統の学び」をクローズアップしたのも、具体的で、面白い。ぜひ自分の授業デザインに取り入れていきたいと思う。
とはいえ、西洋近代の知恵を丸ごと捨て去るのも如何なものかと思う。著者の言うように、それぞれの良いところを「良い加減」でチャンポンにするような知恵が必要なのだろう。そしてその知恵こそ、ヘルバルトが言う「教育的タクト」であり、ペスタロッチーが体現していた技術に他ならないだろうとも思うわけだ。

【今後の研究のための個人的メモ】
工学的アプローチに対する批判は、心強い。自分で言うのもどうかなという時に、積極的に引用していきたい。

「目標に向けて合理的に人間づくりをするという臣での「教育」は一五世紀の西欧において錬金術をモデルにした考え方であり、一九世紀半ば以降の学校教育制度の発展とともに広がっていったにすぎない。」p.80
「例えば、本来は工場での「物づくり」のために開発された「PDCAサイクル」と呼ばれる生産工程・業務管理を行なうためのシステムが、「人づくり」という捉え方から学校現場へ導入された。(中略)このシステムを「教育」に導入することにより、まさに工場における「物づくり」と同じように効率的に「人づくり」が可能になるというのである。」p.81

「結局、「アクティブ・ラーニング」が「きちんとした知」を教師のコントロールのもとで「学ばせよう」としている限り、外見的には「身体を動かすことによって学ぶ」という点では類似しているように見えたとしても、伝統芸能における「学び」とは本質的に異なっているのである。例えば、「効率的なアクティブ・ラーニングの実施」という発想をもっている限り、それは「よいかげんな知」を「しみ込み型の知」で身につけるという基本的な枠組とは大きくかけ離れたものにならざるを得ない。」p.88

「私が「ポートフォリオ評価」など近代教育における評価に対して懸念するのは、「学習者中心主義の立場に立ち学習者自身の自己評価を大切にする」という発想をもちながら、結果的にはすべて教師が想定した枠組みの中でのみの評価に陥ってしまうということである。」p.103

渡部信一『日本の「学び」と大学教育』ナカニシヤ出版、2013年

【要約と感想】板倉昭二『「私」はいつ生まれるか』

【要約】「私」というものは他者や環境との関係があって初めて生じるものです。人間の幼児には、他者(無生物を含む)の行動に対して合理的な意図や関係性を見出す認知機能が生得的に備わっていて、この機能の発達が「心」の発生(=メンタライジング)に関わります。

【感想】人間は幼児期から「心」を認識している可能性があることを、興味深く読んだ。本書に記述された実験に関する報告を信用するなら、人間は様々な対象に「心」を見出す傾向が生得的に備わっているようだ。実験の妥当性を高めるための工夫がいちいちおもしろく、読み物としても楽しい。

ただ、本書に限ったことではないが、心理学や認知科学に対して一般的に疑問を思ってしまうのは、観察された現象を本当に「心」という言葉で呼ぶのが妥当かどうかということだ。原理的に言えば、観察者が持っていた「心」という概念を観察対象に適用して「心」の存在を証明することは、帰納的な推論ではなく、「循環論法」に陥っているのではないか。たとえば、動物実験で観察されたものを「心」と呼ぶのは、単なる擬人化ではないかとも疑ってしまう。観察で見出された現象は、本当に「心」というカテゴリーで処理するのが一番適切なのだろうか? まあ、そんなことはライル等が既に言っていることだけれども。

具体的には、そこで見出されているものの本質は、「心」と呼ぶより、「一」と呼ぶ方が適切ではないだろうか。あるいは、もっと正確には「生命の単位としての一」と呼ぶべきかもしれない。人間は「私」だけを環境から切り出しているのではなく、様々な「一」を環境から切り出している。あるいは他の動物も。だから、人間が生得的に持っている認知傾向とは、「心」を見出す能力というより、「多」から「一」を切り分ける高度な能力ではないのか。まあ、「心」を見出すから「一」を切り分けられるのか、「一」を切り分けてから「心」を仮託するのか、鶏と卵の関係のようなものではあるが。ともかく、最初から「心」の存在を仮定するのではなく、「一」というものを仮定しても、同じ現象がまったく別の論理で説明できてしまうはずだ。このあたりは後期プラトンやアリストテレスがそうとう厳密に手がけているところではあるが。そして古代哲学の論理によれば、「一」から様々な概念が演繹される。たとえば、首尾一貫性という概念であり、アイデンティティという概念であり、あるいは「存在」という概念だ。プラトンやアリストテレスはそこまで言っていないが、実は「心」という概念も「一」から演繹されるものではないのか。そう考えると、「心」とか「アイデンティティ」とか「首尾一貫性」というものは付属的な属性に過ぎず、本質は「一」であると見なすのが適切ではないのか。そしてそう考えても、本書で示された現象は全部きれいに説明できてしまう。

じゃあ、そもそも「一」とは何だと聞かれたら。そんなものは「認知の特異点」であって、それがあるから他のあらゆるものが説明できる認知の底であって、外部からは説明のしようがない何者かとしか言いようがない。どうして「私」が「一」なのかは、誰にも説明できない。それは目の前の「眼鏡」がどうして「一」なのか説明できない(こんなにたくさん部品があるのに、どうして「一」と呼べるのか?)のと同様のことだ。「私」や「眼鏡」を「一」と認知することで、初めて世界が成り立つ。「私」を認識する前に「一」を認識していなければ、世界は立ち上がらない。人間(あるいは他の動物)の生得的な認知の基礎は、そこにあるのではないのか。アリストテレスも、数字は「二」から始まるのであって、「一」は数字ではないと言った。「一」とは数字を成立させるための「認知の特異点」として特別な対象であって、数字のような形式的操作の対象には納まりきらないということだと承知している。「心」というものも現在では実験など形式的操作の対象となっているが、それを成り立たせる根底にはもっと別の根源的な何か、具体的には「一」というものが前提されねばならず、それこそが人間の認知の基礎的で生得的な条件となっているのではないか。まあ、そんなことはアリストテレスやカントが既に言っているのだが。ただ、AIにできないのは、「心」を持つことよりも前に、「一」を認識することではないか。人間は、自分や他人を「一」と認識できるほか、自分よりも小さなもの(たとえば指とか足とか髪の毛とか)も「一」と認識できるし、自分よりも大きなもの(たとえば「家族」とか「民族」とか「国家」とか「地球」とか「世界」)をも「一」と認識できる。そして「一」と認識したものに対して、頼まれもしないのに「心」を仮託する傾向にある。AIは、「心」を生む前に、まず「一」を認識することができない。ここに「生命」と呼び習わされてきた何かの本質があるのではないか。

まあ、本書を読みながらそんなことをつらつらと考えたのだが、もちろんこれは私の問題であって、本書が扱わなければならない問題ではない。

【眼鏡学に使える】
「視線」に関する記述は、眼鏡学的な観点から、興味深い。

「目は心の窓」。いみじくも古人がこう表現したように、他者の心を最もよく反映するのは、視線かもしれない。「私」が最初に出会う他者の心は、他者の目に凝縮されていると言ってもいいだろう。たとえば、視線は、他者が何を見ているかを単純に示すものである。(126頁)

「視線」を可視化するのが眼鏡というアイテムである。つまり他者の眼鏡を外すという行為は、他人から視線を剥奪することの象徴であり、端的に主体性を否定することを意味する。眼鏡を共有する行為は、視線を共有することの象徴であり、生死を共にする共同体の一員であることを保障することを意味する。この「視線」に関する観点は、マンガ作品分析等で極めて多大な示唆を与えてくれる。

板倉昭二『「私」はいつ生まれるか』ちくま新書、2006年

【要約と感想】今井むつみ『学びとは何か』

【要約】知識とは断片的な情報の集積ではなく、それぞれの要素が有機的に関連したシステムです。だから人間は断片的に知識を身につけることができず、一定のスキーマ(思考の全体的な枠組)を背景にして知識を組み入れていきます。個々の知識を組み込む際にスキーマそのものを更新していくのが良い学びです。誤ったスキーマに固執すると、学びは成立しません。

【感想】まあ、言いたいことは分からなくないし、幼児の母語獲得過程の話は勉強になったけれども(著者が「母語」ではなく「母国語」と言っちゃうところは迂闊なわけだが)。
ただ、肝心の学習論に関しては、常識的な枠組みの範囲内の話かなあと思った。たとえば「学びとはスキーマの更新だ」という命題は、竹内常一の「自分くずしと自分つくり」とか林竹二の「徹底的な吟味による自己否定」など、教育学の世界では連綿と語り次がれてきたものであって、認知科学の言葉で改めて語り直されたものではあるが、内容的な目新しさはない。本書のキーワードである「生きた知識」にしても、認知科学の言葉で語り直されているとはいえ、主張内容自体はデューイが100年前に既に述べていることを超えているような気はしない。まあ、人文科学的な常識に認知科学がお墨付きを与えてくれたと思えばいいのかもしれないが。

また、科学的な認識過程の称揚ぷりには、「今は19世紀末だっけ?」というようなアナクロ感をも覚える。本書に描かれている科学観は、ディルタイ以前のものだろう。たとえば「解釈学」は、本書の立場からはどう位置付けられるのだろうか。あるいはトマス・クーン以前と言ってもいいか。「パラダイム・シフト」という概念を、本書はどう扱うのだろう? 「進化論」の展開過程は、本書のスキーマで扱いきれるのだろうか?
全般的に不満に思ってしまったのは、「学び」と銘打つからには教育学が蓄積してきた知見について少しは触れて欲しいなあと思ってしまったからなんだろう。ピアジェとかブルーナーとか、確かに認知心理学は教育思想に大きな影響を与えているけれども、「学び」という言葉はそこに解消できるものではないわけで。

まあ、一般向けの新書だからこれでいいのかな。学部生が高校までの受動的な学びから脱皮するには、きっと良い本でしょう。

今井むつみ『学びとは何か―〈探究人〉になるために』岩波新書、2016年