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【石川県金沢市】尾山神社神門は文明開化の徒花なのか

金沢の尾山神社に行ってきました。金沢城の西、城を挟んで兼六園の反対側にあります。
神社に祀られている主神は、加賀藩初代藩主の前田利家です。

まず圧倒的に目を引くのが「神門」です。一目見た正直な感想を言えば、かなり異様な佇まいの建物です。というのも、和漢洋の3つのスタイルが混在していて、他に類を見ない建築物だからでしょう。敢えて似たようなものを挙げるとしたら、横浜や神戸や長崎の異人館になるでしょうか。

神門が完成したのは明治8年で、日本全体が文明開化に沸いていた時期です。穿った見方をすると、明治維新に乗り遅れて存在感をまったく示せなかった加賀藩としては、なんとしてでも明治政府が示す文明開化の方向性に乗って勢力を挽回しなければならず、見よう見まねで最新の洋風建築を取り入れようという狙いがあって作られたように思えるわけです。まあ、なんの証拠もない、私の勝手な想像ですが。

このような和漢洋混在のスタイルは、ナショナリズムが勃興する明治10年代には姿を消していきます。文明開化期だったからこそ可能だった特異なデザインだったように思えます。こういうものが残っているのは、とてもおもしろいです。

境内には、前田利家若かりし頃の騎馬像があります。「槍の又左」の異名通り、槍を高々と掲げていますが、さらに母衣を背負っているのが大きな特徴でしょう。

母衣について説明パネルがありました。

利家の騎馬像と並んで、正妻のお松の方の石像も設置されています。

NHK大河ドラマで『利家とまつ』が放映されたのをきっかけに制作されたもののようです。

興味を引くのは、「尾山」という地名がしっかり残っていることですね。

もともと金沢城があったところには、室町時代後期には「尾山御坊」というお寺が建っていました。一向宗(本願寺)の重要拠点で、お寺と言いつつ実際には堀や土塁を備えた防御施設でした。尾山御坊が滅ぼされた後に、「金沢」という地名に変わります。「尾山」という名前を聞くと、私はつい本願寺を思い浮かべてしまいます。

拝殿は和風で、見事な造りでした。

帰り際、五色のギヤマンがはめられた神門の三層が、夕陽を受けて輝いていました。文明開化期独特の薫りを堪能して、尾山神社を後にするのでありました。
(2015年9/14訪問)

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【石川県金沢市】金沢城の本丸(尾山御坊跡)はワイルド

金沢城(尾山御坊)に行ってきました。
日本百名城にも選ばれている、実に広大で優雅な城なのですが、一面、ここほど本丸が観光客に無視される城も珍しいと思うのです。

観光客の大半は、兼六園の方から城に入ります。が、城マニアはもちろん大手門(尾板門)から攻め入りましょう。大手門は、兼六園の入口(南西)とは反対側(北)にあります。

大手門の枡形を形づくる石垣が、たいへん立派です。石が巨大。

大手門を抜けると、新丸に出ます。この新丸が、また広大です。

南の方(上の写真では左側)に菱櫓が見えます。鉛の白い瓦屋根で、格好いいです。新丸にも観光客はあまりいません。地元の方がのんびり犬の散歩しています。

新丸から河北門を抜けて三の丸に攻め上ると、兼六園方面の石川門から入ってきた観光客と合流し、賑やかになります。

石川門と枡形も、たいへん立派です。海鼠塀(瓦の目地に漆喰を塗りつけて食い違い格子模様になっている壁)が格好いいですね。

いちばん絵になるのは、三の丸から二の丸へ入る橋爪門でしょう。五十間長屋や続櫓の唐破風と相まって、美しい絵になります。石垣も、赤と青と白の石をうまく組み合わせて組んであって、綺麗ですね。

五十間長屋の中にも入ることができます。続櫓から橋爪門の枡形を見下ろすことができて、気分がいいです。

全員、鉄砲で狙い撃ちできますね。防御力の高い枡形です。

櫓から三の丸を見下ろします。広いですね。

写真中央にあるのは、河北門です。ここの枡形も強力ですね。

五十間長屋を降りて、二の丸を抜け、本丸に向かいます。そしてなぜか、本丸に向かうところで観光客がめっきり減ります。多くの人が二の丸から三の丸へ引き返していきます。

上の写真は、二の丸と本丸を隔てる空堀です。空堀に降りられるのが嬉しいですね(この空堀を真っ直ぐ進んでいくと玉泉院庭園に出られます)。右側が二の丸、左側の石垣の上が本丸です。写真中央の極楽橋を渡って本丸に攻め入ります。

本丸の案内パネルによれば、もともと「金沢御堂」があったとされています。石山本願寺と並ぶ、一向宗(本願寺)の重要拠点の一つです。「尾山御坊」とも呼ばれていますね。加賀は「百姓の持ちたる国」と呼ばれた通り、戦国初期には一向宗が大きな力を持っていた地域でした。

佐久間盛政が加賀に入城したとき、尾山の名が改められ、金沢城となります。金沢というと前田利家の印象が強いのですが、もともとは佐久間盛政の攻略地でした。前田利家が金沢に入るのは、賤ヶ岳合戦で佐久間盛政が没落してからのことです。そして前田利家本人は、金沢から尾山に名前を戻しているようですね。利家ゆかりの神社も「尾山神社」となっています。案内パネルではそのあたりの事情が省かれていますね。

さて、そんな本丸の案内パネルが設置されているのは、木立が鬱蒼と生い茂る中です。うーん、大自然。

金沢城の本丸は、ほとんど整備の手が行き届いていません。実は1995年まで金沢大学のキャンパスがあり、本丸は理学部の附属植物園として利用されていました。現在でも自然が豊かに残されており、城として整備するよりは街中の貴重な緑地として活かす方向で考えているようです。
そんなわけで、大半の観光客は本丸まで足を伸ばしません。

下の写真は、本丸の乾櫓跡から二の丸を見下ろしたところです。デカい城です。

本丸から三の丸に降りていくところの石垣も極めて壮大で立派ですが、やはり観光客はほとんどいません。

北西側から見る城の全景も雄大です。惚れ惚れする石垣です。下の写真は金沢城本丸の全景です。

かつてはここに築地塀や隅櫓も建っていて、壮観だったでしょうね。

さて、金沢城の見所は、まだあります。玉泉院丸跡に、たいへん美しい庭園が復元されました。

見所は、なんといっても石垣です。

長方形の石を縦に置くというのが、なんとも現代アート風です。キュービズムを彷彿とさせます。格好いい。

「色紙短冊積石垣」とは、名前も風流ですね。

しかしこんなに大きな城を抱え百万石を誇った加賀藩が、幕末維新期にほとんど存在感を示せませんでした。江戸時代を通じて事なかれ主義を貫いた結果、太平の世は無事に渡りきったものの、変革期には役立たずに終わってしまいました。歴史の教訓として興味深い事実です。金沢出身の哲学者、三宅雪嶺の話によれば、幕末の金沢は金沢でいろいろ大変だったことは分かりますけれども。
そんなわけで、ただの観光なら1時間もあれば十分ですが、金沢城=尾山御坊を本気で堪能しようとすると、朝から晩までかかります。それくらいする価値はあるだろう、とても立派な城です。
(2015年9/14訪問)

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