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【要約と感想】清永賢二『いじめの深層を科学する』

【要約】いじめは人間が動物である限り、本質的にはなくなりません。これまでは社会規範や個人倫理等で獣性の発現を抑えてきましたが、これからは感覚的に踏みとどまる「待て」というトレーニングが有効になります。
いじめは、表層・中層・深層の三つのレベルに分けて立体的に捉えましょう。表層と中層は教師や家族だけでなんとかできますが、大人たちが真剣に解決しなければならないのは深層いじめです。そもそも深層いじめに対しては「いじめ」などという責任を不明確にする曖昧な言葉を使うべきではなく、人権侵害や刑事犯罪として取扱うべきものです。関係者一同は責任を取る覚悟で子どもたちの安全確保に臨みましょう。

【感想】なかなか熱量の多い本だった。というか、いじめに立ち向うには、これくらいの熱意がなければ折れてしまうということなのだろう。
「真っ黒な少年」というような類書には出てこないだろう独特の言葉の数々など、どこかから理屈を借りてくるのではなく、著者が実際に見て感じた現実からなんとか言葉や論理を捻り出そうという努力と熱意を感じた。その感覚は、私のような教育畑を進んできた人間とはかなり違っていて、やはり少年非行や犯罪の数々を身近で見てきた警察畑の人に特有のものではあるように思う。私自身が肌感覚で理解できない代理不可能な経験を言語化してもらったものとして、傾聴すべき価値があるものだとは思った。

そして、本書が扱う対象は、本書内でも言及されているわけだが、もはや「いじめ」という領域ではなく、刑事罰に該当するようなところに入ってきている。これら刑事罰に相当する事例(本書の三層構造でいえば深層)を「いじめ」と呼ばずに、表層や中層から切り離したとして。大人たちが本気で解決しなければいけないのは、まっくろな少年(今でいうサイコパス)が関わる深層いじめだとして。本書では、子どもたちによく見られる表層いじめや中層いじめは、子どもが「大人になる」ためには通過しなければいけないものであって、大人たちが真剣に解決に取り組むものではないという見解となっているように読んだ。というか、取り組んだところで撲滅できるわけがないという立場だ。
まあ、この立場はこの立場で一つの重要な知見ではあるわけだが、それ故に他の類書とは前提からして噛み合っていないような印象も受けるのではあった。

ともかく、「いじめ」という言葉があまりにも広い範囲に適用されすぎていて、指示内容が茫漠となっているという指摘自体には同意する。恐喝や傷害など刑事罰相当の事例を「いじめ」と呼ばずに「人権侵害」や「恐喝」や「傷害」等と適切に言語化することによって、逆に「教育」という営みがカバーできる範囲が限定され、明確になるだろう。刑事罰相当を担当する警察関係者と、そこから切り離されて残った範囲を担当する教育関係者とで、お互いに役割分担が明確になれば、確かに現在の「いじめ」問題の構図はそこそこすっきりするのかもしれない。
たとえばその知見は、著者が「若者の規範意識は低下していない」と言い切るところにも表れている。よく「若者の規範意識が低下している」と言いたがる人がいるのだけれど、それは著者が的確に指摘するように端的に間違いで、ただ単に自分の主張する都合のいい「道徳教育」を学校に押しつけたいからいっているだけなわけだ。実際にはいくら学校で道徳教育を強化したところで、そもそも「規範意識」が低下していないのだから、現実のいじめの解決に結びつくことはないのだった。教育では本質的に解決できない問題を教育内で解決しようとするからおかしなことになる、というのが本書の知見だ。

しかしとはいえ、警察と教育で役割分担することを「教育の敗北」だと感じてしまうのは、単に私が教育畑の人間だからか。まっくろな少年を「教育」することは不可能であると断念すべきだということか。なかなか割り切れないものがたくさん残るところではある。まあ、こういう境界点にあることで「いじめ」というものの解決が難しくなっているのは確かだろう。

清永賢二『いじめの深層を科学する』ミネルヴァ書房、2013年