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女性の近代的自我の芽生えと少女マンガの物語構造―眼鏡を再びかけ直すことの弁証法的意味

熊本大学で2019年6/22に開催された「日本マンガ学会」第19回大会で行なった口頭発表の記録です。

動画は23分あります。

▼パワーポイントのデータはこちらに置いてあります(※クリックするとダウンロードします)。

▼めがねっこキャラクターリストはこちらです(※スプレッドシートで開きます)
▼リストの凡例については「マンガに登場した眼鏡っ娘リスト」を参照ください。

ご質問へのリプライ

会場では時間の都合等で十分にお答えできていないような気もしますので、こちらの場で改めてリプライできればと思います。

眼鏡をかけていると本を読むなど「女性が勉強できる」ということで、それがおもしろくないという男性社会の価値観の問題もあるのではないか。

会場ではリストについて詳しくお話しできなかったのですが、やはり「眼鏡による内面的な特徴(委員長だったり優等生だったり)」と「眼鏡による外見的な特徴(美容的に劣る)」は、区別して分類しています。その上で、内面的な特徴と外面的な特徴の両方を併せ持つキャラクターもたくさん存在しています。「勉強できる」という性格的な特徴が、外面とリンクしている様子はデータから明らかに見えます。
そして、女性が勉強できるようになるのがおもしろくないという男性は、おそらく一定数いるでしょう。「女性が眼鏡をかけているのは良くない」という偏った価値観は、男性の僻みや妬みから生じている可能性は十分に考えていいと思います。
またたとえばアメリカではSF作家のアイザック・アシモフが、眼鏡を外して美人になるなどということは物理的にあり得ないと主張し、そんな愚かなことを主張する人々は精神水準が低いと訴えています。(アシモフ『生命と非生命のあいだ』)。アメリカでも、「女性は勉強できなくてもいい」という意見が、眼鏡っ娘に対する価値観に何らかの影響を与えていると見ていいのかもしれません。
それを私は、「見る/見られる」の非対称性の問題として考察してきました。眼鏡とは「見る」ための道具です。しかしかつての女性は一方的に「見られる」ための存在でした。眼鏡をかけるということは、一方的に「見られる」ための存在だった女性が、「見る」という主体的な立場を獲得することの象徴になります。女性の主体性を認めたくない人々は、おそらく女性から眼鏡を奪おうとするでしょう。「女は眼鏡を外した方がいい」などと言う男は、女性を単に「見られるだけの対象」としてしか見ていないのです。

眼鏡を外して美人にならないパーセンテージはどのくらいか。

会場ではデータが操作できなかったので正確にお答えできませんでした。
リストでは、眼鏡を外したまま恋愛成就するキャラが254人いるのですが、そのうち美人になるのは139人です。なぜか、眼鏡を外して美人になるわけでもないのに、最終的に眼鏡をはずして彼氏をゲットするキャラが115人いるんですね。
ちなみに眼鏡を外すことで変顔になるキャラは、いまのところ4例ほど確認しています。

「通俗的価値」と「個人的価値」のアウフヘーベンというところまで抽象度を上げると、少年マンガにもたくさんあるのではないか。

仰るとおり、どこまで抽象度を上げて一般化していいかは、理論的な見極めが必要なところだと思います。
ポイントは、主人公の内面の葛藤と統合過程が描かれているかどうかだと考えています。それが描かれているのであれば、その少年マンガ作品にも「近代的自我」を認めてもいいのではないかと思います。ラブコメ系の作品には、そういうものが多いと思います。たとえば田丸浩史『ラブやん』や、井上和郎『あいこら!』は、主人公の葛藤と成長を描いたいい例だと思っています。
しかし一方、『ドラゴンボール』や『魁!男塾』という作品には、弁証法的構造は見られないと考えています。最初からかなり人格が完成していて、仮に肉体や技は成長したとしても、自我にはたいして影響がないからです。(もちろん、だからといってそれが悪いということではありません)。『ドラゴンボール』や『男塾』に見られる物語構造は、もともと敵であった別の人格(ヤムチャ・ピッコロ・ベジータ等)を、矛盾と葛藤を経て味方の集団に統合して強くなっていくという「共同体的なアウフヘーベン」です。

ご協力のお願い

個人の力が及ぶ範囲のみで資料収集と確認を行なっているので、時間的・経済的に限界があります。
特に1970年以前の貸本や、21世紀以降の作品に大きな欠落があると思われます。
ほか、記録ミスやデータ形成時の混乱などにより、データが誤っていることもあるかと思います。
なにかお気づきの点がありましたら、ご連絡いただければ、私の研究が進みます。

また、これまで可処分所得の大半をこの研究に費やしてきて、そろそろ経済的な限界を感じつつあるので、たいへん恐れ入りますが、Amazonくれくれリストを載せておきます。

【要約と感想】河合隼雄『子どもと学校』

【要約】これからの教育は多様な価値を認めていかなくては成り立ちません。そのために「臨床」の知恵が役に立ちます。大人から一方的に「教える」ことではなく、子どもの自発的な「育つ」を支援することが大切です。
価値観が大きく変わっているのは、もともと女性原理で動いていた日本社会に、西洋の男性原理が入ってきたのが原因です。どちらかが正しいということではなく、両方を大切にして、子どもの個性を伸ばしていきましょう。

【感想】二項対立的に「共同体/個人」を切り分け、それぞれに「女性的/男性的」を割り振って、さらに「日本/西洋」を当てはめ、その止揚を目指すという構図は、まあ、陳腐には感じる。「またですか」という気にはなる。とはいえ、分かりやすい構図ではある。これで分かった気になる人が多いのは、間違いないのだろう。私もこの図式に乗っかるのが無難なのかもしれない。いやはや。

しかし、「性」と「自立」に関する考察のところは、感心した。ナルホドなあと思った。多方面に波及しそうな論理なので、しっかり自分の中で消化していきたい。

【要検討事項】
不登校やひきこもりに関して、著者は「さなぎ」の比喩を使っている。他の本でも「さなぎ」の比喩を見かけることがあるのだが、そのオリジナルはどこにあるのか。ひょっとして河合隼雄か、どうか。「ひきこもり」に関する言説史に関わる課題として、ちょっと気にしておきたい。

「人間にとって子どもが大人になるということは、なかなかのことである。毛虫が蝶になる中間に「さなぎ」になる必要があるように、人間にもある程度「こもる」時期が必要なのである。(中略)
そのような「さなぎ」状態が他の子どもよりもきつい形であらわれてくると、不登校になり、文字どおり部屋にこもるようになる。」(143-144頁)

【個人的な研究のための備忘録】
本書ではやたらと「個性」という言葉が登場する。臨時教育審議会の答申が出てまもなくの1992年出版の本でもあり、影響が色濃く反映しているようにも見える。河合隼雄自身の思想変遷を睨みながら、「個性」概念の歴史を研究する上で考慮に入れる価値がある史料なのかもしれない。

「わが国の母性原理の強さに基因する一様序列性の害は、いくら強調しても足りないほどのものである。一人ひとりが個性をもち異なる存在であることをほんとうに自覚できたなら、全員が一様に順序づけられることなど考えられるはずがない。しかし日本人の場合、自分がそのような場の序列のどこにいるのか、部長か課長か、課長でも一番目か二番目か、ということによって自分のアイデンティティーを保っている人が多いのではなかろうか。
もし、生徒たちに対して、ほんとうに個性の伸張などということを期待するのなら、教師や教育委員会の人たち、そして文部省の役人が、一様序列的アイデンティティー以外の個性に基づくアイデンティティーをもつべきであろう。」(29頁)

「次に「個性の伸張」ということだが、これも実に大変なことだ。このことは、先に述べた事実とも関連してくると思うが、日本の教育が、個性や創造性を伸ばす点において他の先進国に劣るものであることは、つとに指摘されているところである。」(46頁)
個性の尊重という点について、教育のことを考える人であれば、その重要性をすべての人が指摘するであろう。しかし、これはわが国の教育を考えてみると、相当に困難な問題なのである。」(56頁)
「これは、大学人としては、各大学が大学としての個性をもっていないことをまず反省すべきだろう。各大学が多様な個性を持てば、それを一様に順序づけることができないし、受験生は大学の個性と自分の個性とのからみで大学の選択をするので、すべての人が特定のひとつの大学へ行きたがるなどということがなくなって、少しは受験競争も緩和されるであろう。」(57頁)
「生徒の個性を尊重するためには、教師が自分自身の個性を大切にしなくてはならない。」(113頁)

そして「個性」に対する考察が進むうちに、日本人の近代性の話に迷い込んでいく。この話の構成自体は極めて陳腐なように思わざるを得ないところではある。

「ここで「日本人論」を展開するのもどうかと思うが、「個性」のことを考えはじめると、どうしても日本人の特性について考えざるを得なくなってくる。簡単に言ってしまえば、欧米人の近代合理主義に支えられた自我の確立ということを、日本人がいまだ充分に成し遂げていないということである。」(58頁)
「しかし、問題は簡単ではない。近代自我はそろそろ行きづまりを見せ、人間の自我意識のあり方においても、まさに転換期に来ていることを自覚させられるからである。わが国の教育が、したがって、西洋に追いつこうとして、近代自我を確立するような教育にそのあり方を変えたとしても、それはたちまち時代おくれとなってしまうであろう。近代自我を超えたあり方を、われわれは探索しなくてはならない。わが国の教育のあり方は、欧米をモデルにするわけにもゆかず、日本の従来の方法をよしとするわけにもゆかず、「個性」を見出してゆくのには、いったいどのようにすべきか、強いジレンマに悩まされるのである。」(63-64頁)

通説的に言えば、近代自我に対する疑念は20世紀初頭の段階ですでにフロイトによって提出されたことになっていると思うし、著者御専門のユングもいろいろ言っているはずではあるのだが、著者はまさに眼前の問題として理解している。そしてこの解決を「日本的=女性的/西洋的=男性的」の止揚に求めることとなれば、その構図はそれこそ戦前の「近代の超克」から見られる陳腐なものになるのであった。

そしてまた教育基本法の第一条を掲げた上で、内容に対して違和感を表明しているのは、個人的には見逃せないところだ。

「教育基本法にはいいことが書いてあるが、それはそのような人間の「育成を期して」教育が行われるのであり、ここに登場した人たちは、子どものときこそ問題があったが、基本法にあるようなことを目指しての「育成を期した」教育を受けたから、今日のようになったのだ、などと言えるだろうか。
それよりも、個性を豊かにするためには、教育基本法の第一条をあらためて、「心身ともに不健康な国民の育成を期して」とでもするべきであろうか。木村素衛氏の指摘している、教育における「根本的矛盾」というものは、実に根が深いのである。」(40-41頁)

個人的には、教育基本法の成立過程と哲学に対する根本的な誤解があるように読めるところではある。が、それを期待してもしかたがない。「教育基本法に対する見解」の歴史的な変遷を考えるときの参考資料の一つとして扱うべき文章なのだろう。

河合隼雄『子どもと学校』岩波新書、1992年

【要約と感想】諏訪哲二『ただの教師に何ができるか』

【要約】1970年頃から、子どもたちは決定的に変質しました。教育が行き詰っているのは教師や学校が悪いのではなく、変質した子どもに対応できないのが原因です。
変化の本質は、「近代化」が思わぬ形で達成されてしまったことです。我々教師は子どもたちに近代的自我を持たせることを夢見てきましたが、高度消費社会の到来は予想外の形で子どもたちに「かけがえのない個」をもたらしました。そして確固たる指針を失って個人的な利害にしか関心を持たない教師たちが、その傾向に拍車をかけています。産業社会における近代化に特化してきた学校は、このような形で近代化を達成した子どもたちに対して、もはや無力です。
著者は1960年代には集団主義的な学級経営によって、管理や受験に対抗し、人間形成に関する成果を上げてきましたが、70年以降の変質した子どもに対しては、もうお手上げです。

【感想】近代の断末魔だなあ。いやはや。
ちなみに私は1972年生まれで、高校に入るのが1987年ということで、まさに著者の言う得体のしれないオレ様化した子どもたちのド真ん中に位置するのであった。でも、著者の言っていることはよく分かる。なぜなら、私も本質的には近代主義者だからだ。教育の本質が「自由を強制するというアポリア」であることを自覚する、近代主義者だからだ。教育の本質が「公共性」にあることを信じる、近代主義者だからだ。
しかし著者と違うだろうところは、私(あるいは私と同世代)の場合、もはや近代を続行しなくても問題ないかもしれないと考え始めているところにある。たとえば東浩紀が言う「動物化」とかテクノロジーとは、個々の近代的自我に依拠しなくても近代的システムが成立してしまうという事態を言い表している。東の議論を徹底すると、近代的自我を持てない個体には、もはや持ってもらわなくても結構ということになる。勝手に単なる消費的主体として豚のように楽しく生きていただければいいのである。
とはいえ私個人は、教育学徒だけあって、そこまで割り切れないものを抱え込みながら近代と対峙しなければならない。著者が「近代の終わり」を明確に見据えながらも、それでもアポリアの渦中でもがき続けるのは、「それが教師だからだ」としか言いようのない情念が関わってくるように思うわけだ。そういう情念の在り処も窺わせてくれる、なかなか面白い本ではあった。

【備忘録】
近代の終わりに関する議論がとても多い。そしてそれが高度経済成長と関わって70年前後に転換点があるという指摘は、私個人の関心にも示唆を与えてくれる。言質を取っておきたい。まあ、宮台真司が言っていることとほぼ被っているんだけれども、教育関連の文章に明確な影響があることは、確認しておいてたぶん損はない。

【近代の達成と終わり】
「私は高度消費社会と大衆民主主義とを二つながら備えているこの国が新しい「時代」に入りつつあると考えているが、それは「近代」が達成されたと同義である。」(18頁)
「教師が教え、生徒が学ぶという教育の方が危うくなり、生徒の個別的な学びを教師が支援するという怪しげな「個性重視」なるものに文部省は流れつつある。これは「個性」や「個人」にもともと実体的な価値があるということを前提としなければ成り立たない。近代公教育は市民の卵としての無数の「私」を育成するところに、その原基がある。
(中略)もともと、人間は「私」の局面において「外部」を学べるものである、近代の夢は十全な「私」が成熟して「この私」(自立した近代市民)になるということになっていた。
(中略)おそらく、個体の成長のしかるべき時期に「外部」が適切に提示されなかったこと、システム的な「外部」である学校が有効に機能していないこと、高度消費社会からの眼差しが個体に強い「主体」の意識を与えていることが、この国において子どもたちが「私」と「この私」制を簒奪する形で「自己確立」を成し遂げた理由であろう。かくして、日本の普通教育は「時代」に合わなくなってきたのである。
子どもたちの変容に適合すべく、「個性重視」のソフトな教育や学校が耳ざわりよく語られる。たぶん楽天主義者は「近代」そのものの確実性や普遍性に寄りかかっている。これらの問題はことによると「近代」そのものの宿痾かもしれないのにである。」(51-52頁)
「時代の子としての高校生たちは七〇年以降の高度成長経済の進行のなかで、内部に社会性を持った個人としての硬質さをどんどん欠いていったように、私には見えました。」(245頁)

高校生の変質を「70年」という具体的な年代を出して、資本主義の変質という下部構造から理論化してくれているのは、私個人の理屈にとってはとても都合がいい。

また、時代がどうかというよりも、近代教育に本質的なアポリアに対する意識がとても高いところは実に興味深い。この原理を自覚していない人は、世の中にとても多い。

【近代教育の本質的なアポリア】
「教育は子どもに文化伝達をしながら、将来主体的人格として「自立」することを期待している。」(23頁)
「冷静に考えればわかるように、生徒は学校では明らかに「文化伝達の対象」であるが、「主体的な人格」は学校を出てからそうなるべく想定されていることであり、そこに時間差があるといってよかろう。また、すでに「主体的な人格」になった者が「文化伝達の対象」であるはずがない。」(24頁)
「とりわけ、教師の側が「主体的人格としての子ども」の側面を重視することは、教師の個々の知性や人格によって生徒たちに「価値」を教え込もう、教え込めるという思い上がりと錯覚を生じさせる。」(29頁)
「学校では何ごとか意味のあることをなそうとすると、必ず「近代」になってしまう。」(165頁)
「近代公教育の学校は、「未開」である子どもを啓蒙して、近代社会の市民・生活者たるべく育て上げることを目的としている。」(166頁)
「親は子どもが言うことを聞くように育てながら、いずれ言うことを聞かなくなるように育てなければならない。」(231頁)

ちなみに諏訪は「教育活動(生徒にとっては学習活動)においては「文化を伝達する」プロセスと、「生徒が自立へ向かう」プロセスが同時的に進行している。どちらか一方だけがなされているわけではない。」(25頁)というが、これがまさしくヘルバルト(教育学の父)が言った「教授(instruction)があって教育(education)があり、教育があって教授がある」という洞察であることは自覚されているだろうか?

そして近代教育のアポリアの焦点となるのは、近代的自我を支える「特異点」である。この特異点への言及も、興味深いところではある。諏訪は絶対的に「外」や「上」など外部からもたらされると決めつけているが、実はそれこそが諏訪の論理構成全体の鍵を握っている。諏訪のこの認識と論理が正しいかどうかが、彼の教育論を批判する上での決定的な要点となる。逆にいえば、この急所を認識しないで批判しているとしたら、ほぼ間違いなく的外れということだ。

【特異点】
「「神を畏れなくなった」ということは、「個」が自立したのである。正確には、「個」が自立したと錯覚しはじめたのであり、「個」が現実において生活している「共同社会」を対象化しはじめたのである。(中略)要するに、高度消費社会と大衆民主主義社会と情報化社会が「新しい個」を分泌しはじめたのである。」(113頁)
「私たちは「個」が自立するためには「外」なる「上」なる「普遍」が必要であることを知らなかったのである。」(115頁)
「「個」が主体となるためには、一度「個」を超える超越系に征服されなければならない。そのためには、個体が本源的に持っている自己中心性が完全に「外」から「上」から否定される契機が必要である。」(202頁)

個人的には、「特異点」は「特異点」でありさえすればいいので、論理的にはそれが必ず「外」や「上」からもたらされる必要はないと思える。まあ、「特異点」は外や上から与えるのが一番「らくちん」なのではあるだろうが。しかし、「内」や「下」から特異点が立ち現れる可能性は、模索してもいい。

そして著者は、近代が終わって教育がどうなるかという予見も示している。

「前期近代型の公教育システムはそこからはみだし、落ちこぼれる生徒を作り、それは個人の責任ではなくシステムに問題があるとされているが、後期近代型の個性尊重システムは、個人の逸脱を許さないものになろう。つまり、これこそ超「近代」の理念に沿った「構築」なのである。」(167頁)
「いま文部省が押し進めている教師の意識改革は、本来教育的意味合いを持っていた「近代前期」的な要素を洗練させて「近代後期」的なものにすることである。」(167-168頁)

なかなか鋭い指摘だと思う。1998年段階でこれをしっかり予見できていたことに驚くが、まあ、宮台も言っていたことではあった。ともかく、いわゆるインクルーシブ教育等は、この方向(個人の逸脱を許さない)での構想ではあるだろう。あるいは苫野一徳が目指すのも、この近代後期的な構築ではある。いちおう、それが悪いと言いたいのではない。私個人としても、「事ここに至れば、選択肢はそれしかないだろうなあ」というところではある。

ところで、「見る/見られる」の非対称性というメガネ論的にも興味深い文章も記録しておきたい。

「日本は近代になって一度だけ「見られる」側から、「見る」側にまわろうとして致命的な大失敗をした。」(206頁)

なるほど。これはメガネ弁証法に対しても示唆を与えてくれる観点だ。勉強になった。

諏訪哲二『ただの教師に何ができるか』洋泉社、1998年

【要約と感想】諏訪哲二『いじめ論の大罪―なぜ同じ過ちを繰返すのか?』

【要約】学校には市民社会の論理は通用しないし、適用するべきではありません。が、学校に市民社会の論理が侵入して、大人の指導を受けるべき未熟な子どもたちが自分も大人と対等な「近代的個人=オレ様」だと誤認し、教師の指導を受け容れないのが、いじめ発生の原因です。マスコミや行政も教師の力を削ぐ愚かな行為に荷担しており、如何ともしがたい状況に陥っています。ほんものの近代的主体を形成する上では、いじめは不可抗力です。

【感想】これほど「近代の論理」をストレートに打ち出してくる人は、いやあ、貴重だなあと思う。右派とかリベラルとか、この人に訳の分からないレッテルを貼る人も多いようだけど、彼はカント的な意味での「近代主義者」以外の何者でもない。本書でも教員採用試験に出てくるようなカントの近代主義的見解を繰り返し述べているに過ぎず、そういう意味では実は教育学的に新しいことは何も言っていないのだった。たとえば、次に引用するのは北海道・札幌市が2016年に実際に教員採用試験に出した問題だが、仮にカントを知らなくても、本書の主張を援用すれば解けるのだった。

ドイツの哲学者であるカント(Immanuel Kant 1724~1804)は、「子どもには自分に( 1 )が加えられるのは、やがて自分固有の自由の行使がうまく行えるようにという配慮によるものであること、自分が( 2 )されるのは、それによってやがて将来自由でいられるように、すなわち他人の配慮に頼らなくてもすむように、という考え方によるものであることが、示されなければならない。」と述べた。

問1 空欄1、空欄2に当てはまる語句の組合せを選びなさい。
ア. 1―手心 2―放任
イ. 1―手心 2―教化
ウ. 1―手心 2―支援
エ. 1―拘束 2―放任
オ. 1―拘束 2―教化

答えは、もちろん「オ」だ。近代主義者なら、間違えるわけがない。未熟な子どもに「手心」を加えたり「放任」したりするのは、責任感ある大人の態度ではない。子どもが将来市民として自立するためには、大人が適切な拘束と教化を与えなければならないに決まっているのだった。
もちろんこれは私個人の意見ではない。カントを代表とする近代主義の見解だ。そして本書の立場も、完全にこの枠内にある。

ところでしかし、現代において、この近代主義を貫徹することは可能だろうか? われわれは、近代教育に「自由を強制する」というアポリアが如何ともしがたく貼り付いていることを自覚している。たとえば本書が批判する宮台真司が試みたのは、「自由を強制する」ためにどうしても必要な「特異点」の所在を明らかにすることであった(具体的にはたとえば日本人にとっての天皇などの議論)。しかし諏訪は、「自由を強制する」というアポリアを自覚しつつも、特異点の存在を原理的に認めず、居直る。

「これからも教師も生徒も親も苦労していくしかないのだ。私たちは近代というパンドラの箱をすでに開けてしまったのである。」(229頁)

しかし現代の潮流は、諏訪の思いとは逆に、「強制なしで自由になる」ことを夢想している。テクノロジーの発展によって、パンドラの箱を閉じられるのだと考えている。このあたりは東浩紀などが盛んに主張しているところだ。あるいは苫野一徳も、近代の終りを明確に意識しつつ、予定調和的に「自由を強制する」という近代教育のアポリアを乗り越えようと試みている。果たして、近代教育のアポリアは現代テクノロジーによって乗り越えることが可能なのか、どうか。つくづく、教育とは因果な仕事だなと思う。

【今後の個人的研究のためのメモ】
本書には近代主義的立場と、「近代の終わり」に対する諦めが、そこらじゅうで表明されている。いくつかメモしておきたい。
まず、近代が終わっているという認識をところどころで確認できる。

「学校はもともと近代の器である。近代の器が揺らぎ始めたのである。ただ私の経験から言わせてもらえば、学校は近代を確立した六〇年代からすでに揺らぎ始めていた。おそらく、教育不全・学校不全は近代の宿命なのであろう。」(20頁)

「社会に適応した人間になるのが近代(前期)型の人間であるとすれば、七五年あたりから後期近代(超資本主義)に入り、自己に適応した社会を求める人間像が登場してきたのではなかろうか。」(30頁)

「「行政のちから」「教員のちから」で学校が動かされるのが、明治からの近代前期の流れである。一方、「民間のちから」「子どものちから」は、まさに成熟した近代後期のものである。」(73頁)

まあ、このような「近代の終り」に対する認識は、特にオリジナルな考えではなく、世界中の社会学者が口を揃えて指摘しているところだ。諏訪にオリジナルなのは、これを自分の経験(学校教育や生徒の具体的な変質)と接続させて論じるところだろう。

「子どもが学校へ入ってくる時、すでに家庭における第一次教育は終了し、地域や情報産業や経済システム等における第二次教育も終了している。もうすでに立派は個性を身につけている。まだ一人前の近代的人間(近代的個人)になっているわけではないが、本人の自覚は一人前だったりする。」(61頁)

「もう三〇年以上も経って、時代や子ども・若者たちの目鼻立ちがくっきりしてきたから、いじめを除いてすべてが子ども(生徒)たちの近代社会からの逃避を意味していることが透けて見えてきた。近代的人間になることを嫌がっている。」(113頁)

まあ、このあたりの認識も、佐藤学が「学びからの逃走」と言っている事態と本質的には変わらない気もするが。とはいえ「近代的人間になることを嫌がっている」という指摘には、諏訪の経験的な実感が伴っており、拝聴するに値する。
そしてその現実に対して示される対処法は、まさに近代主義だ。

「学校は教育の場であり、生徒が近代的個人に育っていく場である。学校は一人前の市民が生活しているところ(市民社会)ではない。学校は市民社会ではないし、あってはならない。学校は子ども(生徒)を市民として扱っていない。市民として扱ったら教育はできない。さまざまな機会を通じて市民へと向うような教育(指導)をしているところだ。」(121頁)

「子ども(生徒)を近代的市民にするためには、ある種の自由や権利の制限はやむをえない。」(211頁)

「彼らにとって近代的個人とは「自らそう思っている人」のことである。「ただの自分」のことである。なるべき理想のあり方ではない。そして、現実には共同体的な贈与関係の中に心地よく漂っている。結局、生徒たちがモデルとすべき(してしまっている)親やまわりのおとなや教師たちが、脆弱な近代的個人になっていたからなのであろう。
私は教育がめざすべき近代的な個人(主体)を社会的なもの、ないしは、「公」的な要素に重点をおいて考えている。つまり、一人ひとりの内的な意識(「内的な自己」)よりも、その社会的な現れ(「社会的な個人」)のほうが重要だと思っている。」(80頁)
「近代的個人とはこの「内的な自己」と「社会的な個人」とを併せ持っていることを自覚している人間のあり方なのであろう。」(270頁)

これは上述したカントの近代主義そっくりそのままの再現だ。あるいはヘーゲルの言う「即自(内的な自己)」と「対自(社会的な個人)」を止揚して「即且対自」に至る弁証法運動を信奉していることの表明でもある。とにかく近代どっぷりの理屈である。近代が夢想した「未熟な子ども/人格の完成した大人」の二分法の形式的な適用である。
そんな諏訪の近代的個人に対する見解は、まさに教科書通りである。(それが悪いというわけではない、というか現憲法下では極めて真っ当な見解だ)。

「近代的個人とは何か? 社会に参画しながら社会を相対化するちからを持ち、近代的生活様式に馴染んだ、自立した合理(理性)的な人間とでも想定できようか。(中略)
近代信仰とは、近代社会を信じることよりは近代の理念を信じることであり、それは人間の個人の価値を信じることである。」(90頁)

そしてそれを踏まえた上で、近代特有の人間関係(つまり市民社会)に対するシビアな認識が示される。これが彼の言う「いじめの原因」だ。

「個と個の争いは近代(的)になって発生したのである。いじめの根源もここにある。」(36頁)

そうなのだ。「万人の万人に対する闘争(リヴァイアサン)」は「近代」だからこそ発生するのだ。共同体主義では、「個」と「個」の争いが起こるわけがない。だから、「近代的な個」を認めるのであれば、論理必然的に「個と個の闘争」も認めざるを得なくなる。だから諏訪は、「個として成長するために、いじめは必要だ」と言い切れるのだ。すべて近代主義の枠内の論理だ。あるいは「いじめは成長する上で糧となる」という認識は、「自然権」から「自然法」へと至る近代的な理性を信頼するという点で、まさにホッブズ的であるとも言える。

しかしそんな諏訪でも最後にやはり「特異点」を設定するしかなかったのは、近代主義のどうしようもない限界が示されていて、極めて興味深い。そしてそれは誰もが逃れられない原理的なアポリアであって、諏訪の個人的資質のせいではない。どれだけ「完全で無矛盾」な世界を夢想しても、あるいは体系が完全で無矛盾であればあるほど、「特異点」が浮かび上がってこざるを得ないのであった。

「自己が変革され、人間性が高まるためには、「人格の完成」のような倫理的な絶対目標が必要である。」(280頁)

まあ、このように「特異点」として「人格の完成」を設定するのは、現憲法下においては、極めて真っ当なセンスだ。この諦めは、私の感覚に極めて近い。だから諏訪の論理は、個人的にはかなりスッと中に入りこんでくるのだった。近代主義者の悲哀と覚悟を感じざるを得ないのであった。

諏訪哲二『いじめ論の大罪―なぜ同じ過ちを繰返すのか?』中公新書ラクレ、2013年

【要約と感想】田上孝一・黒木朋興・助川幸逸郎編著『<人間>の系譜学 近代的人間像の現在と未来』

【要約】哲学と文学で「人間」がどのように観念されたかについて考察した、論文集。哲学で扱うのは、デカルト、スピノザ、ヘーゲル、ニーチェ、マルクス。文学で扱うのは、ゾラ、田山花袋、サン=テクジュペリ、サルトル、カミュ、三島由紀夫、アラン・ロブ=グリエ、安野モヨコ。

【感想】人間というものを考えるときの対立軸として、「普遍性/個別性」「全体性/断片性」「一貫性/変幻性」「単独性/集団性」という図式を描くとして。それぞれの二項対立において、前者がいわゆる近代性の指標であるのに対し、後者は前近代もしくは後近代の指標ということになる。

で、本論文集で示された内容を二項対立図式によって乱暴にまとめると、ニーチェ論文は単独性→集団性、マルクス論文は全体性→断片性、ゾラ論文は全体性→断片性、サン=テクジュペリ論文は普遍性→個別性、三島由紀夫論文は一貫性→変幻性、ロブ=グリエ論文は一貫性→変幻性というふうに、近代的な人間観が無効化(あるいは超克)される姿を描いていると言える。
ニーチェ論文の、弱者を集団人格化して理解する論旨には意表を突かれたけれども、アクロバット過ぎる気もする。要検討。

一方、ヘーゲル論文は、人格というものの自律性と依存性という相矛盾する本質をどう両立させるかという、古代からの難問を扱っている。個人的には、このアポリアは本質的に解くことができないものだと思っている(カント的な意味で)が、見せかけの特異点を消失させる論理構成の在り方に哲学者のオリジナリティが出るものだとも思う。
デカルト論文は、デカルトを近代的な認知枠組みで理解すること自体を疑問視し、中世的な枠組みで相対化することで論点が浮かび上がるように読んだ。しかしまあ、儒教のテキストとか読んでいても思うけれども、近代的な認知枠組みを自ら相対化してテキストに当たることは、とても難しいんだよなあ。

田上孝一・黒木朋興・助川幸逸郎編著『<人間>の系譜学 近代的人間像の現在と未来』東海大学出版会、2008年