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【要約と感想】諏訪哲二『いじめ論の大罪―なぜ同じ過ちを繰返すのか?』

【要約】学校には市民社会の論理は通用しないし、適用するべきではありません。が、学校に市民社会の論理が侵入して、大人の指導を受けるべき未熟な子どもたちが自分も大人と対等な「近代的個人=オレ様」だと誤認し、教師の指導を受け容れないのが、いじめ発生の原因です。マスコミや行政も教師の力を削ぐ愚かな行為に荷担しており、如何ともしがたい状況に陥っています。ほんものの近代的主体を形成する上では、いじめは不可抗力です。

【感想】これほど「近代の論理」をストレートに打ち出してくる人は、いやあ、貴重だなあと思う。右派とかリベラルとか、この人に訳の分からないレッテルを貼る人も多いようだけど、彼はカント的な意味での「近代主義者」以外の何者でもない。本書でも教員採用試験に出てくるようなカントの近代主義的見解を繰り返し述べているに過ぎず、そういう意味では実は教育学的に新しいことは何も言っていないのだった。たとえば、次に引用するのは北海道・札幌市が2016年に実際に教員採用試験に出した問題だが、仮にカントを知らなくても、本書の主張を援用すれば解けるのだった。

ドイツの哲学者であるカント(Immanuel Kant 1724~1804)は、「子どもには自分に( 1 )が加えられるのは、やがて自分固有の自由の行使がうまく行えるようにという配慮によるものであること、自分が( 2 )されるのは、それによってやがて将来自由でいられるように、すなわち他人の配慮に頼らなくてもすむように、という考え方によるものであることが、示されなければならない。」と述べた。

問1 空欄1、空欄2に当てはまる語句の組合せを選びなさい。
ア. 1―手心 2―放任
イ. 1―手心 2―教化
ウ. 1―手心 2―支援
エ. 1―拘束 2―放任
オ. 1―拘束 2―教化

答えは、もちろん「オ」だ。近代主義者なら、間違えるわけがない。未熟な子どもに「手心」を加えたり「放任」したりするのは、責任感ある大人の態度ではない。子どもが将来市民として自立するためには、大人が適切な拘束と教化を与えなければならないに決まっているのだった。
もちろんこれは私個人の意見ではない。カントを代表とする近代主義の見解だ。そして本書の立場も、完全にこの枠内にある。

ところでしかし、現代において、この近代主義を貫徹することは可能だろうか? われわれは、近代教育に「自由を強制する」というアポリアが如何ともしがたく貼り付いていることを自覚している。たとえば本書が批判する宮台真司が試みたのは、「自由を強制する」ためにどうしても必要な「特異点」の所在を明らかにすることであった(具体的にはたとえば日本人にとっての天皇などの議論)。しかし諏訪は、「自由を強制する」というアポリアを自覚しつつも、特異点の存在を原理的に認めず、居直る。

「これからも教師も生徒も親も苦労していくしかないのだ。私たちは近代というパンドラの箱をすでに開けてしまったのである。」(229頁)

しかし現代の潮流は、諏訪の思いとは逆に、「強制なしで自由になる」ことを夢想している。テクノロジーの発展によって、パンドラの箱を閉じられるのだと考えている。このあたりは東浩紀などが盛んに主張しているところだ。あるいは苫野一徳も、近代の終りを明確に意識しつつ、予定調和的に「自由を強制する」という近代教育のアポリアを乗り越えようと試みている。果たして、近代教育のアポリアは現代テクノロジーによって乗り越えることが可能なのか、どうか。つくづく、教育とは因果な仕事だなと思う。

【今後の個人的研究のためのメモ】
本書には近代主義的立場と、「近代の終わり」に対する諦めが、そこらじゅうで表明されている。いくつかメモしておきたい。
まず、近代が終わっているという認識をところどころで確認できる。

「学校はもともと近代の器である。近代の器が揺らぎ始めたのである。ただ私の経験から言わせてもらえば、学校は近代を確立した六〇年代からすでに揺らぎ始めていた。おそらく、教育不全・学校不全は近代の宿命なのであろう。」(20頁)

「社会に適応した人間になるのが近代(前期)型の人間であるとすれば、七五年あたりから後期近代(超資本主義)に入り、自己に適応した社会を求める人間像が登場してきたのではなかろうか。」(30頁)

「「行政のちから」「教員のちから」で学校が動かされるのが、明治からの近代前期の流れである。一方、「民間のちから」「子どものちから」は、まさに成熟した近代後期のものである。」(73頁)

まあ、このような「近代の終り」に対する認識は、特にオリジナルな考えではなく、世界中の社会学者が口を揃えて指摘しているところだ。諏訪にオリジナルなのは、これを自分の経験(学校教育や生徒の具体的な変質)と接続させて論じるところだろう。

「子どもが学校へ入ってくる時、すでに家庭における第一次教育は終了し、地域や情報産業や経済システム等における第二次教育も終了している。もうすでに立派は個性を身につけている。まだ一人前の近代的人間(近代的個人)になっているわけではないが、本人の自覚は一人前だったりする。」(61頁)

「もう三〇年以上も経って、時代や子ども・若者たちの目鼻立ちがくっきりしてきたから、いじめを除いてすべてが子ども(生徒)たちの近代社会からの逃避を意味していることが透けて見えてきた。近代的人間になることを嫌がっている。」(113頁)

まあ、このあたりの認識も、佐藤学が「学びからの逃走」と言っている事態と本質的には変わらない気もするが。とはいえ「近代的人間になることを嫌がっている」という指摘には、諏訪の経験的な実感が伴っており、拝聴するに値する。
そしてその現実に対して示される対処法は、まさに近代主義だ。

「学校は教育の場であり、生徒が近代的個人に育っていく場である。学校は一人前の市民が生活しているところ(市民社会)ではない。学校は市民社会ではないし、あってはならない。学校は子ども(生徒)を市民として扱っていない。市民として扱ったら教育はできない。さまざまな機会を通じて市民へと向うような教育(指導)をしているところだ。」(121頁)

「子ども(生徒)を近代的市民にするためには、ある種の自由や権利の制限はやむをえない。」(211頁)

「彼らにとって近代的個人とは「自らそう思っている人」のことである。「ただの自分」のことである。なるべき理想のあり方ではない。そして、現実には共同体的な贈与関係の中に心地よく漂っている。結局、生徒たちがモデルとすべき(してしまっている)親やまわりのおとなや教師たちが、脆弱な近代的個人になっていたからなのであろう。
私は教育がめざすべき近代的な個人(主体)を社会的なもの、ないしは、「公」的な要素に重点をおいて考えている。つまり、一人ひとりの内的な意識(「内的な自己」)よりも、その社会的な現れ(「社会的な個人」)のほうが重要だと思っている。」(80頁)
「近代的個人とはこの「内的な自己」と「社会的な個人」とを併せ持っていることを自覚している人間のあり方なのであろう。」(270頁)

これは上述したカントの近代主義そっくりそのままの再現だ。あるいはヘーゲルの言う「即自(内的な自己)」と「対自(社会的な個人)」を止揚して「即且対自」に至る弁証法運動を信奉していることの表明でもある。とにかく近代どっぷりの理屈である。近代が夢想した「未熟な子ども/人格の完成した大人」の二分法の形式的な適用である。
そんな諏訪の近代的個人に対する見解は、まさに教科書通りである。(それが悪いというわけではない、というか現憲法下では極めて真っ当な見解だ)。

「近代的個人とは何か? 社会に参画しながら社会を相対化するちからを持ち、近代的生活様式に馴染んだ、自立した合理(理性)的な人間とでも想定できようか。(中略)
近代信仰とは、近代社会を信じることよりは近代の理念を信じることであり、それは人間の個人の価値を信じることである。」(90頁)

そしてそれを踏まえた上で、近代特有の人間関係(つまり市民社会)に対するシビアな認識が示される。これが彼の言う「いじめの原因」だ。

「個と個の争いは近代(的)になって発生したのである。いじめの根源もここにある。」(36頁)

そうなのだ。「万人の万人に対する闘争(リヴァイアサン)」は「近代」だからこそ発生するのだ。共同体主義では、「個」と「個」の争いが起こるわけがない。だから、「近代的な個」を認めるのであれば、論理必然的に「個と個の闘争」も認めざるを得なくなる。だから諏訪は、「個として成長するために、いじめは必要だ」と言い切れるのだ。すべて近代主義の枠内の論理だ。あるいは「いじめは成長する上で糧となる」という認識は、「自然権」から「自然法」へと至る近代的な理性を信頼するという点で、まさにホッブズ的であるとも言える。

しかしそんな諏訪でも最後にやはり「特異点」を設定するしかなかったのは、近代主義のどうしようもない限界が示されていて、極めて興味深い。そしてそれは誰もが逃れられない原理的なアポリアであって、諏訪の個人的資質のせいではない。どれだけ「完全で無矛盾」な世界を夢想しても、あるいは体系が完全で無矛盾であればあるほど、「特異点」が浮かび上がってこざるを得ないのであった。

「自己が変革され、人間性が高まるためには、「人格の完成」のような倫理的な絶対目標が必要である。」(280頁)

まあ、このように「特異点」として「人格の完成」を設定するのは、現憲法下においては、極めて真っ当なセンスだ。この諦めは、私の感覚に極めて近い。だから諏訪の論理は、個人的にはかなりスッと中に入りこんでくるのだった。近代主義者の悲哀と覚悟を感じざるを得ないのであった。

諏訪哲二『いじめ論の大罪―なぜ同じ過ちを繰返すのか?』中公新書ラクレ、2013年

【要約と感想】イヴァン・イリッチ『脱学校の社会』

【要約】学校という制度をなくしましょう。
学校という制度に捕らわれている限り、人々は幸せになれません。現代社会は人間生活に本質的には必要のない無駄なモノやサービスを大量に生産して、かけがえのない環境を破壊し、滅びに向かっているのですが、そのような破滅的な生活を根底から支えているものこそ学校制度なのです。なぜなら学校制度こそが「無駄な需要」を必需品と勘違いさせる元凶だからです。人々は学校から供給されるサービスを消費することに芯から慣れきり、官僚制度に飼い慣らされて、本質的には自分たちでできることすらサービス消費に依存するようになってしまうのです。環境を破壊する無駄な需要への欲望と期待を根底から断ち切り、官僚的なサービス消費への依存から脱却しない限り、人類は滅亡します。そのためにこそ、学校制度は廃止されなければなりません。
仮に学校がなくなっても、まったく困りません。学校がなくても「教育」は成立します。学校の代替となる制度についても、しっかり考えました。

【感想】
長く読み継がれているだけあって、様々なインスピレーションをもたらしてくれる本だ。とても面白い。学校に対する代替案は頼りないとしても、まったく問題ない。この本の魅力はそこにあるわけではない。本書の魅力の本質は、現代社会に対する極めて原理的な批判にある。
批判の原理は、大きく分けて2つの柱で構成されているように読んだ。一つは福祉国家を拒否するリバタリアン的な世界観であり、もう一つは人間の実存にかかわる人間観である。

リバタリアニズム

まず本書に一貫している理論的な柱は、リバタリアン的な世界観だ。イリイチは福祉国家的なあらゆる制度を否定し、個々人の自由を最大化しようとする。イリイチが福祉国家の害悪として特に槍玉に挙げるのは、官僚化した病院や学校制度だ。病院や学校が官僚的にサービスを供給することによって、本来なら人々が自分の力で処理できた物事が官僚組織の管理の対象となり、人間が本来もっていた自己処理の能力は剥落していく。
この視点は、フーコーの「生-権力」論と通底するものがある。本来は多様で渾沌としていた剥き出しの「生」だったものが、福祉国家が介入し管理することで規格化されていく。フーコーはそのような巧妙な権力のありかたを「生-権力」として浮き彫りにした。イリイチも同様に、人々の多様で渾沌とした生の営みが、官僚制度のサービス的介入によって規格化されることを批判する。

しかしフーコーの「生-権力」論とイリイチの脱学校論が違うのは、まず脱学校論が「コストパフォーマンス」という視点を前面に打ち出している点だろう。イリイチは、現状の学校制度がコスパ的に極めて効率が悪いことを繰り返し批判する。どれだけ学校制度に公的資金を大量に注ぎ込もうとも、目指すべき教育目標(たとえば卓越性や平等)は実現できないという主張だ。イリイチは、自分のアイデアが実現されれば、もっと安く、もっと手間がかからず、理想の教育が実現できると主張する。イリイチの脱学校論が説得力を持つかどうかは、「学校制度という巨大な官僚組織は、教育を行なう上で非効率的だ」という主張に具体的根拠があるかどうかにかかっている。それは「福祉国家の官僚制度一般は、国家運営の上で非効率だ」というリバタリアニズムの一般的な主張と同じ構造をとる。おそらくイリイチの脱学校論が世界的に広く受け入れられたのは、このリバタリアニズム的な課題意識と問題関心が、当時の福祉国家批判の流れと噛み合っていたからではないだろうか。実際、脱学校論以降、アメリカのレーガン政権、イギリスのサッチャー政権、日本の中曽根政権は福祉国家政策を転換して「小さな政府」へと向かって行くこととなる。日本の臨時教育審議会が目指した教育改革は、イリイチの脱学校論の関心を部分的に共有しているように思える。具体的にはイリイチが提示している教育バウチャーというリバタリアニズム的なアイデアを、臨時教育審議会以降の新自由主義論者は繰り返し持ち出すことになる。
逆に言えば、もしもイリイチの脱学校論に対して直感的に危機感を覚えるとしたなら、その主要な原因はリバタリアニズム的な世界観にあるだろうと思う。新自由主義に対する危機感や嫌悪感を共有している場合、おそらく脱学校論の主張を素直に受け取ることはできないだろう。仮にイリイチが主張するように学校制度が福祉国家を代表する官僚組織であったとしても、それを解体してリバタリアニズムを実現したところで、本当に世界は良い方向に向かうのか。その疑問が拭えない限り、脱学校論の主張を全面的に受け入れることは難しい。

一方、通俗的な新自由主義論者とイリイチが決定的に異なるのは、イリイチの福祉国家批判が環境問題に対する課題意識を土台にしていることだ。彼が福祉国家批判や脱学校論を展開するのは、単にコストパフォーマンスの問題だけに関心があるからではない。もっと根本的な危機感が土台にあるのだ。
たとえば資源が有限で、地球環境がどんどん悪化し、このまま資源を浪費し続けていると地球が壊れるだろうことは薄々みんな気がついている。本書が出たのはもう50年近く前のことではあるが、地球環境の悪化に対する懸念は解決されるどころか、ますます終極に向かって突き進んでいるように思える。……まあ、ここまでは多くの人が異口同音に主張しているところだ。イリイチのオリジナリティは、環境問題が解決しない根本的な原因に「学校化社会」があると喝破したところにある。「<需要>の供給」を行なう学校制度こそが何にもまして根本的な原因だと見なしたのだ。
環境と資源の問題は、結局は「人々の欲望」が際限なく膨らんでいくことに根本的な原因がある。しかしイリイチの主張では、人々の欲望が膨らむのは必ずしも自然的な現象ではない。学校制度が介在することによって人々の欲望が人工的に生産されると言うわけだ。学校制度によって人工的に生産された欲望によって、不必要なモノだけでなく、不必要なサービスも過剰に生産される。不必要なサービスを供給するために巨大な官僚組織が必要とされ、その維持に莫大なコストが必要となる。そして巨大な官僚機構の不必要なサービス供給がいったん成立してしまったら、人々はそこに取り込まれ、需要することが当たり前と思い込むようになる。そして巨大な官僚機構の不必要なサービスの代表が、学校であり、病院であるというわけだ。
人間が本来もっている力を考えれば、そんなに莫大なコストをかけて官僚組織を維持するまでもなく、同じレベルの教育は可能だとイリイチは主張する。あるいは、官僚機構が浪費する莫大な費用と比較したらごくごく僅かなコストで、はるかに有意義な教育が可能になるとも言う。ともかくも、まずは学校制度という巨大な官僚機構が、途方もなく莫大なコストを浪費しながらも、まったく成果を挙げていないどころか逆効果の極みであり、これこそが環境破壊の元凶であることを直視せよと、イリイチは具体的な例を畳みかけてくるのだった。イリイチの「コストパフォーマンス」に対する関心が地球環境への危機感を土台としていることは、論理的に押さえておくべき要点のように思う。

人間が本来もっている力に対する信頼

学校制度に対する批判の二つ目の理論的柱は、人間観にある。特に人間が本来もっているはずの力に対する信頼が、理論の土台にあるように思える。
既に見たように、イリイチが学校制度を批判するのは、その官僚組織にサービスが供給されることにより、人間が本来もっていたはずの可能性が発露しないまま抑圧されるからだ。例えば人々はかつては自分の力で病気を治すための努力をしていたのが、現在は病院の制度化と官僚主義的な福祉厚生行政によって、単にサービスを需要するだけの消費者に成り下がっている。学校も同じく、人々を単にサービスを需要するだけの消費者と化している。イリイチがここに問題の根源を見るのは、フーコーが言う「生-権力」の問題と課題意識を共有している。
人々はかつて単に消費者だったのではなく、自分の生を生きていたはずだ。特に自分を理想の自己へと教育する行為は、官僚組織から与えられるサービス消費などではなく、自分自らを生産する行為であったはずだ。人間は自分を自分らしく教育する学習可能性が本来的に備わっていたはずだ。官僚的な学校制度は、この人間本来の力を破壊し、無力化し、人々を専門家の監視と指導の下に置く。制度化された権力が生の全面に滑り込んでくる。
イリイチの脱学校論は、生に滑り込んできた官僚組織を追い出し、人々がもともと持っていた自己形成への力を取り戻すことを目指す。人は、強制などされなくとも、適切な環境さえ整備されれば、自分から進んで自己形成を行なうものだ。その環境とは、イリイチが構想するところでは、教育の需要と供給をマッチングさせるネットワーク整備ということになる。そして本書が出版された50年前には夢想的だった制度構想が、現在のインターネットの発展によって実現可能になっている点も、論点としては極めて興味深い。が、さしあたって構想された制度の実現可能性については、検討しない。私の関心は、この構想の核心部分にある教育哲学的にある。

イリイチの教育哲学は、由来を遡るとルソー『エミール』に行き着くように思う。ルソーは教育の仕事として、自分の「力」でできることを増やしていくことが重要だと言った。人間にとって本当に幸せなことは、自分の力が拡張して、できることが増えていくことだ。いちばん避けなければならないのは、他人に言葉で命令してやらせることに慣れてしまうことだ。自分の力でできず、他人にやってもらうことほど惨めなことはない。このルソーの教育哲学を、イリイチも共有している。イリイチが最も忌避するのは、本来なら自分の力でできるようなことを他人に依存することだ。そして学校制度(あるいは病院)が最悪なのは、それが「他人に依存することを教える」ような官僚組織だからだ。他人に依存せず、自分の力でできることは自分でやる。そして「自分でやる」べき最たるものこそ、教育に他ならない。自分の教育は、自分でやる。そして人間は本来的に、その力を備えていたはずなのだ。
イリイチの脱学校論の根底にある教育哲学は、人間の自己教育への力に対する信頼であるように思う。脱学校論が様々な瑕疵にもかかわらず広く長く読み継がれているのは、この人間の力への信頼が土台となっているからであるように思う。

今後の研究のための備忘録

著者本来の主張とはおそらくあまり関係がないところで、いろいろ興味深い記述が多い。たとえば、イリイチ本人がカトリックと深く関わっていたからだろうが、教育(学校)を宗教の比喩でもって記述する文章が目につく。

【教育(学校)を宗教の比喩で捉えた記述】
「教育機会を平等にすることは、確かに望ましいことでもあり、実現可能な目標でもある。しかしこれを義務就学と同じことだと考えることは、魂の救済と教会とを混同することにも等しいのである。学校は近代化された無産階級の世界的宗教となっており、科学技術時代の貧しい人々に彼らの魂を救済するという約束をしているが、この約束は決してかなえられることはない。」29頁

「近代国家は自国の教育者の判断を、善意の怠学者補導官や就職条件を通して国民に押しつけてきたが、それはちょうどスペインの国王たちが彼らの神学者たちの判断を、中南米の征服者や宗教裁判を通して被征服民族や国民に押しつけたのと全く同じことなのである。」19-20頁

「それで、貧しい人々は自尊心を失い、学校を通してのみ救いを与えてくれる一つの教義に帰依することになる。少なくともキリスト教の教会は、人々の臨終の際に、彼らに懺悔をするチャンスを与えた。それに対して学校は彼らに、彼らの子孫がそれをなし遂げるであろうという期待(むなしい望み)を抱かせるのである。その期待とはもちろん、一層多く学習することであり、その学習は教師からでなく学校から与えられるものなのである。」65頁

「ところが、学校の教師と教会の牧師は、逃げ出す心配のない聴衆に説教するだけでなく、彼らに相談をしにきた人々の私事にまで立ち入って穿鑿する資格があると考える唯一の専門職業者なのである。」68頁

「今日学校制度は、有史以来の有力な宗教が共通にもっていた三重の機能を果たしている。それは社会の神話の貯蔵所、その神話のもつ矛盾の制度化、および神話と現実の間の相違を再生産し、それを隠蔽するための儀礼の場所という三つの役割を同時に果たしている。」78頁

「学校は、衰退しつつある現代文化の世界的宗教となるのに特に適しているように思われる。どんな制度も学校ほど上手には、その参加者に現代の世界における社会の原理と社会の現実との間の深い矛盾を隠蔽することはできないであろう。」p.88

教育や学校を宗教に喩える論法は様々に見ることができるが、イリイチの場合は単なる思いつきというレベルではなく、聖職者の経験を踏まえた上での論理的な記述なので、なかなか興味深く読める。

また、日本語では同じく「教育」と翻訳されるのであるが、英語言うeducationとinstuctionとdrillの違いについての見解は、なかなか興味深い。

【educationとinstructionの違いについての記述】
「社会を脱学校化するということは、学習の本質に二つの側面があることを認めることを意味している。技能の反復的練習(skill drill)だけを主張するならば不幸を招くであろう。学習の他の側面にも同じように重点をおかなければならない。しかし、もしも学校が技能を学ぶにふさわしくない場所であるならば、教育(education)を受けるにはもっとふさわしくない場所なのである。現在の学校はそのどちらの任務をも上手くやっていない。その理由の一部分は、学校がその両者を区別しないことにある。」40頁

「私は習得した技能の開放的かつ探求的使用を奨励するような環境の整備を「自由教育」(liberal education)と呼ぶことにする。学校はこの自由教育に関してはさらに効率が悪いのである。」40頁

「ほとんどの技能は、反復的練習(drill)によって習得し向上させることができる。なぜならば技能というのは、定義をし、かつ予測することのできる行動を習得することを意味するからである。したがって技能を教授するには、その技能が使われる環境の模擬に頼ることができる。しかしながら技能を探求的・創造的に使用することについての教育は、反復的練習に頼ることはできないのである。教育(education)が教授(instruction)の結果であることもあるが、その場合の教授は反復的練習とは基本的に異なる種類のものである。」41頁

「確かに技能の学習も、発明的創造的行動を育てる教育も、どちらも制度を変えることによってよりよいものにすることができるが、両者は本質的に異なり、しばしば対立する性質のものなのである。」41頁

この文章でイリイチは「教育(education)」と「教授(instruction)」を概念的に明確に使い分けている。そして学校制度はその両者ともにとって効率が悪いと主張する。
まず「教授=instruction」に対しては、イリイチは教育課程上の問題として議論を展開する。そして「教育=education」に対しては、就学義務の問題として議論を展開する。educationとinstructionは次元を異にする問題である。が、学校組織が害悪であるという点が共通しており、漠然と読むだけではイリイチの主張の要点を捉えるのが難しいのではないかと思う。educationとinstructionを概念的に区別することで、本来の主張を正確に理解できるのではないかと思った。

それから、「児童労働」についての見解は、なかなか興味深い。

【児童労働についての記述】
「もし、雇用条件が人間性を尊重するものであれば、八歳から十四歳までの年齢にある子供を、毎日、二時間雇う者には、特別な税法上の優遇措置がとられるであろう。われわれはユダヤ教の成人式あるいはキリスト教の堅信礼の伝統に戻るべきである。私がこのようなことをいう意味は、若者から公権をうばうことをはじめのうちは制限し、後にはそのようなことを全面的に廃止し、十二歳の少年が制限なしに社会生活に参加する責任をもつ人間であると認めることである。」156-157頁

教育史の常識では、児童労働の禁止は近代教育がなしとげた金字塔であった。が、イリイチはその成果を根本的に否定する。児童は労働するべきなのだ。その見解は、フーコーが『性の歴史』で子どもから性的自己決定権を奪うことの正当性に対して疑問を呈していることと根を同じくしている発想であるようにも思う。イリイチは子供にも自己決定権(政治的・市民的)を十分に与えるべきだと考えているのだろう。性的自己決定権についてイリイチがどう考えているかは、本書からはわからないが。
そういう意味では、イリイチが「学校の現象学」ということで、アリエス「子供の誕生」の知見を全面的に採用していることは、ナルホドというところではある。

【子供の誕生に関する記述】
「しかしながら、われわれは現在抱いている「子供時代」の概念が、西ヨーロッパにおいてつい最近、アメリカにおいては、さらに最近になってから発達したということを、忘れているのである。」60頁
「前世紀までは、中産階級の「子供たち」は家庭教師や私立学校の助けを借りながら家庭で育てられた。産業社会となってからはじめて「子供時代」の大量生産が実現可能となり、また大衆にも手の届くものとなった。学校制度は、それが作り出す子供時代と同じように、近代に出現した現象なのである。」61頁

イリイチは、近代によって大人と子供が分離したことそのものが問題の元凶であると捉えている。そういう意味で、徹底した反近代論者であると言えるし、特にそれを隠そうともしていない。プロメテウスを否定してエピメテウスを称揚する最終章は、まさに反近代主義の宣言であった。

イヴァン・イリッチ『脱学校の社会』東洋・小澤周三訳、東京創元社、1977年

【要約と感想】三宅ほなみ監訳『21世紀型スキル―学びと評価の新たなかたち』

【要約】産業社会から知識社会に変化するので、これまでの学校教育は役に立たなくなります。知識社会に対応するため、教育は21世紀スキルを育成しなければなりません。21世紀スキルは、テクノロジーの圧倒的な発達を背景にして評価システムが画期的に進化することを前提に、授業の中に評価システムを埋めこみ(結果ではなくパフォーマンスを重視した形成的評価)、目標から授業をデザインするのではなく、個々の子どもたちが創造的に知識を生産してゴール自体を変更し(創発的アプローチ)、多様な他者と協働的にコラボレーションすることで身についていきます。

【感想】まあ、言っていること自体は分からなくもない。現代は、明らかに根本的な変化の過程にある。かつて農業社会から産業社会に生産様式が変化した際には、封建社会から市民社会へという政治様式の変化に伴って、徒弟制から学校教育へ教育様式も変化した。現在の学校システムは、明らかに近代(産業社会+国民国家+資本主義+民主主義)をサポートするために機能している。だからもしも産業社会が終わるのであれば、学校システムの有効性も崩れる。そのこと自体には、多くの人がとっくに気づいている。問題は産業社会から知識社会への変化に対応するような代替的な教育システムの具体的構想が極めて難しいことで、本書はその課題に対して一定の回答を示したものと言うことはできる。そういう意味では、かなり頑張っていると思う。勉強になるところも多々あった。私自身の授業-評価改善のために参考になるところも多い。

だが、読んでいて気持ち悪いのもまた確かである。私が馴染んできた教育学の本とは、まるで違うものになっているのだ。まず文体が気持ち悪い。教育学の本ではなく、まるでアプリケーションの付属説明書を読んでいるかのようだ。英語からの翻訳文体という事情はあるのかもしれないが、それにしても奇妙な文体だ。

おそらく文体の気持ち悪さと連動しているのだろうが、気になるのは、「人格の一貫性」とか「アイデンティティ」という近代教育の根幹に関わる部分に一切の関心が払われていないところだ。むしろ一貫性やアイデンティティは、意図的に排除されているとも読める。本書の立場では急激に変化する社会に柔軟に適応することが重要なのであって、人格の一貫性とかアイデンティティとかいったものに執着するのはむしろ適応障害と見なされそうだ。またあるいは本書の立場は、「個の尊厳」を軽視し、コミュニケーションやコラボレーションやネットワークといったものを重視する。それはテクノロジーの発展によって、個体を「スタンド・アローン」ではなく、ネットワークに接続された「端末」として想定するのと同様のことだろう。そして彼らの文体の気持ち悪さは、文章をプロトコルとして扱うことに由来している気がする。そして「人格」そのものも、人間の尊厳の源として尊重すべき不可視の対象ではなく、測定し評価し開発して活用すべき操作可能な資源と見なされている。この人間観の違いこそが、気持ち悪さの根源にあると思う。

しかし翻って、この「人格」という概念自体が近代に由来するものとすれば、知識社会の到来に伴って近代の有効性が崩れるとき、人格概念の意味もまた土台を失う。「人格」概念は、前近代の身分制や封建制を克服する中から説得力を持った。はたして、近代の終焉と共に「人格」概念も捨て去られる運命を辿るのかどうか。「人格の尊厳」ではなく「ネットワークの尊厳」となるのかどうか。
あるいは、21世紀型スキルというものが具体的にわかりにくいのは、仮に知識社会では「人格」概念が無効だとして、その代わりとなる有効な概念が示されていないのが原因なんだろう。逆に言えば、「人格」を代替する概念を発見すれば、21世紀型スキルに説得力が生じ、近代が終わる。個人的には、それは「環境」と呼ばれている言葉から芽が出てくるような気がしているが、どうか。

P.グリフィン、B.マクゴー、E.ケア編/三宅ほなみ監訳、益川弘如・望月俊男編訳『21世紀型スキル―学びと評価の新たなかたち』北大路書房、2014年

【要約と感想】諏訪哲二『学力とは何か』

【要約】「ゆとり教育」のせいで学力が下がったのではなく、学力が下がったから「ゆとり教育」に切り替えなければならなかったのです。ゆとり教育を批判した新自由主義の人々は、「学力とは何か?」ということを真剣に考えたことがないから無責任なことが平気で言えます。人格的な基盤ができていないところで、学力向上などありえません。

【感想】教育に関して、古来から「自由」か「強制」かで議論が繰り返されてきている。しかしある種の教育学は、教育のことを「自由への強制」と把握している。ここが、法学や経済学など他の人文社会諸科学では扱わないし扱えないだろう、教育学固有の領域となってくる。本書も、教育を「自由への強制」と捉える教育哲学ないしは人間観を共有している。だから、新自由主義のような単細胞(あるいは粗雑な個人主義)の世界観に対して極めて批判的となってくると同時に、単純な「強制」という立場にも与さない。

筆者の主張は、「学校」と「塾や予備校」を比べるなかで、二項対立的に鮮明に現れる。二項対立をまとめると、以下のようになる。

 学校塾や予備校
育成する学力みえない学力見える学力
育成の対象生活知識
働く場所無意識頭脳
育成の方法迂回路最速で最短
社会原理贈与交換
形式共同体から個人への強制個人の自由意志で成立
目的国民形成・市民形成専門技術・進学教育
内容ミニマムエッセンシャルマキシマムエッセンシャル
人間観合理的な人間を構成する営み合理的な個人がすでにいる

学校は、ただの生物学的なヒトを「合理的な個人」へと、つまり「人間」へと育てる営みである。自分の意志をもたなかったものに、意志を持たせる営みである。それは教育基本法第一条に明記されているように、「人格の完成」を目指す営みである。
一方、塾や予備校が行う学力向上は、既に「合理的な個人」となった人間が自分の意志によって市場に参加することで成り立つ。この市場における交換には、もともと「合理的な個人」が前提されている。逆に言えば、「合理的な個人」が存在しないとき、この市場における交換は成立しない。
要するに、塾や予備校は、学校によって「合理的な個人」が作られた社会にタダ乗りすることで成り立っている。人格の土台を作ってくれる学校がなければ、塾や予備校は成り立たない。新自由主義者はこの論理を完全に見誤っている、と筆者は主張する。
ここから、筆者の「ゆとり教育」の理念に対する肯定的な評価も出てくる。学力向上を主張する人々は、学校が果たしている人格形成の機能を無視ないしは軽視している。学力向上は、人格形成の基盤があって、はじめて成功する。「ゆとり教育」とは、学力形成の基盤となる人格形成をしっかり行おうとした試みであると、筆者は捉える。

ということで、筆者は典型的な「近代主義者」と言える。学校の役割とは、まず近代社会に必要な「合理的な個人」を作ることだと考えている。で、いったん「合理的な個人」さえ完成させれば、あとは個人の自由にまかせればよい。これは、教育を「自由を強制する」ような営みだと捉える、教育学としては比較的スタンダードな「近代主義」的教育観と言える。
が、これに対して「成熟した近代」(by宮台真司)のような世界観・歴史観もある。成長途上の未熟な近代であれば、近代社会を完成させるために、学校が「自由を強制」しながら「合理的な個人」を作る必要があったかもしれない。しかし「成熟した近代」になってしまえば、「合理的な個人」など存在しなくても世界は平気で回るようになり、強制的に「合理的な個人」を作る装置である学校は必要がなくなる。筆者が危惧するように子どもたちが「できなくなったのではなく、やらなくなった」のが事実だとしても、それは地域や家庭が市場の論理に組み込まれたせいではなく、「成熟した近代」に突入したからなのかもしれない。まあ、実態としては同じことを言っている可能性は高いのだが、近代の基盤が掘り崩されたと否定的に見るか、あるいは近代が成熟して次のステージに移ったと肯定的に見るか、世界観が異なっているわけだ。
そう見立てると、筆者の怒りは的が外れていることになりかねない。近代が終わりかけているにも関わらず、「近代主義者」が近代(その未完のプロジェクト)を続行させようとしていることになるからである。「人格の完成」という近代のプロジェクトは、「成熟した近代」にはもはや必要ない理念かもしれないのである。

「学力とは何か?」という問いの本質は、「近代」という時代をどう理解し、「学校」の歴史的役割をどう見定めるかにあるのだった。この課題に対する洞察を欠いているとき、「学力とは何か?」という問題に本質的な解答は与えられない。

諏訪哲二『学力とは何か』洋泉社、2008年