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読書感想文に対する教育学的見解

読書感想文は、やらなくていい

 どうも世間には誤解が満ちているようなので、事実を端的に示しておくと、学校や教師が読書感想文を行う必要は、まったくありません。なぜなら、『学習指導要領』に「やれ」とは一言も書いてないからです。読書感想文を行うことは、学校に期待されていません。
 以下、教育学者として見解を述べます。

学習指導要領に書いてあることが学校の仕事

 ごくごく基本的なことを確認しますと、学校や教師が絶対にやらなければいけないことは、『学習指導要領』に書いてあることです。『学習指導要領』は法的拘束力を持つと文部科学省は主張しています。法学的解釈としては様々な立場がありますが、ともかく文部科学省としては、学校と教師には『学習指導要領』に書いてあることをしっかりやってもらいたいと期待しているわけです。
 逆に言えば、『学習指導要領』に書いていないことは、文部科学省が学校や教師の仕事として強制的に課しているものではない、ということです。そして、読書感想文をやれとは、『学習指導要領』に、一言も書いてありません。つまり、学校や教師は、読書感想文を行う必要は、まったくないのです。

学習指導要領に書いてあること

 『学習指導要領』に書いてあるのは、「読書活動を充実すること」(小学校22頁、23頁)、「楽しんで読書をし、国語を大切にして、思いや考えを伝え合おうとする態度を養う」こと(小学校28頁)だったりします。読書活動を充実するべきことは書いてありますが、読書感想文をやれとは、一言も書いてありません。学校や教師の仕事は、子どもたちに「楽しんで読書をし」てもらうことであって、読書感想文を書かせることではありません。私がそう主張しているのではなく、『学習指導要領』を読めば、そう書いてあります。
 (※いちおう、「文章を読んで理解したことに基づいて、感想や考えをもつこと」(小学3・4年)、「文章全体の構成や展開が明確になっているかなど、文章に対する感想や意見を伝え合い、自分の文章のよいところを見付けること」(小学5・6年)という記述はあります。ただしそれを「読書感想文」という形で実現せよとは書いていないわけです。)

文部科学省の公式見解

 さらに、文部科学省の公式見解を見ても、読書感想文は特に推奨されているわけではありません。
 たとえば2004年の文化審議会答申に「これからの時代に求められる国語力について」というものがあります。ここに、答申として提出された公式見解として、こう述べられています。

 読書感想文を書くこと 自体は子供たちの国語力を向上させる有効な方策の一つであるが、一律に、読書感想文を強制するなど子供たちに過度の負担を感じさせてしまうような指導では、子供たちが物語の中に入り込めず、読書を楽しむことができない。常に子供たちの状況を的確に把握し、意欲を出させるための取組が必要である。(24頁)

 どう読んでも、読書感想文を推奨していません。そしてこの答申では、読書感想文ではないやりかたで「読書を充実させる」ための様々な施策が提案されています。

「必要か必要でないか」以前の問題

 そもそも私がなんでこんな文章を書いているかというと、「読書感想文は必要か」国語教師らしき人物の問いかけが議論を呼ぶ」(LivedoorNEWS)という記事を読んで、唖然としたからです。「必要か必要でないか」を議論する以前に、「学習指導要領にやれとは一言も書いていない」という事実を知らないのが問題だからです。特に現役国語教師がこれを知らないというのは、あまり褒められたことではないと思います。『学習指導要領』を読んでいないということですから。

目的を見極め、手段を工夫する

 私としても、別に『学習指導要領』が100%正義だなどと言いたいわけではありません。やらなきゃいけないと指示されているものに対して、「ほんとうに必要か?」と疑いの目を向けることはあります。が、読書感想文に関して言えば、『学習指導要領』にすら「やれ」とは一言も書いていないわけです。
 学校や教師の仕事は、「読書活動の充実」をすることです。これが「目的」です。この目的を達成するために、様々な手段を考え、工夫するわけです。「読書感想文」とは、「読書活動の充実」という目的を達成するための手段のひとつに過ぎません。その手段が、目的に達成にとって有効ならやればいいし、目的の達成にとって効果がないのであればやめればいい、ただそれだけのことです。『学習指導要領』は、「読書活動の充実」という目的は示していても、それを達成するための手段として「読書感想文をやれ」なんて書いていません。手段は、各学校と教師が考えて工夫すればいいだけです。それにも関わらず相変わらず読書感想文が続いているとすれば、それは単に学校と教師の前例主義に基づく思考停止に過ぎません。教師のほうで読書感想文に意味を見いだせなければ、さっさとやめればいいのです。ただし、仕事として「読書活動の充実」をしなければならないということは、もちろん忘れてはなりません。

手段が目的化したときに、ものごとはおかしくなる

 読書感想文が相変わらず続いているのは、本来の目的が見失われ、手段が目的化していることが強く疑われる事例です。本来の目的を達成しようと思ったら、他に有力な様々な手段があります。しかし目的を見失って、単なる手段だったものを目的化してしまうと、なんのためにやるのか意義が分からないに関わらず、ずるずる続けてしまうわけです。
 事は、読書感想文だけ留まらないのでしょう。わけの分からないブラック校則も、手段が目的化してしまったものです。その校則を作った時点では何らかの目的を達成するはずだったものが、いつのまにか本来の目的が見失われ、校則を守ること自体が目的となってしまうと、ブラック校則になります。部活動にも、手段が目的化しているおかしな事例がたくさん見られます。
 学校にも、日本社会にも、手段が目的化してしまったばかりに、多くの人々を不幸にしているものが、たくさんあります。読書感想文とは、そういう「手段が目的化したわけのわからないもの」を象徴するものなのかもしれません。

結論

 やる必要を感じないのなら、読書感想文はさっさとやめてしまって、なんの問題もありません。ただし、「読書活動の充実」は必ず行って下さい。