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【要約と感想】ヴィンツェンツォ・ヴィヴィアーニ『ガリレオ・ガリレイの生涯 他二篇』

【要約】ガリレオの晩年に口述筆記を行った人物による評伝で、ガリレオ本人と実際に対面している人物の証言として重要です。
 もともと父親に医者になるための教育を受けさせられたガリレオは、しかし幾何学に対する天性の才能を発揮して自然学の道へ進み、次々と重要な自然学的発見と実用的発明を行った結果、貴顕王侯からも重要視されて高額な報酬で名誉ある地位に迎えられ、世間からも一目置かれるようになる一方、古代哲学に執着する頑迷な敵対者に悩まされ、異端審問裁判で追及されて軟禁状態に置かれますが、視力を失った晩年まで活動を続けました。

【感想】解説にもあるように、確かに科学的真理の発見そのものよりも、その「応用」のほうに大きなインパクトがあるという書きっぷりだった。あるいは、科学的真理の発見そのものとその応用を区別しているのは単に我々の現代的科学技術観であって、ガリレオの生きた科学黎明期にあっては科学と技術の区別そのものが意味をなさなかったと考えるところか。またあるいはそれは、美術の分野で言えば「美」そのものよりも「実用的な装飾」のほうが重要だという世界観と響き合っているのだろうし、「善」の分野では弁論術や修辞学の権威が高く見積もられていたことと関係するのだろう。真理を真理そのものとして、美を美そのものとして尊重(あるいは絶対視)する態度というものが、真理や美が制度化された後に一般化するのだと考えると、弁論術や修辞学が衰退した過程も併せて説明できそうだ。

【個人的な研究のための備忘録】教育と人文学
 当時のフィレンツェの教育と、人文学に対する距離感について伺える記述がたくさんある。

「少年期の彼は、フィレンツェのありふれた評判の教師について人文学を学んで過ごした。(中略)彼は主要なラテン語の著者の読書に専念し、独力で人文学の幅広い知識を獲得した。(中略)この頃、彼はギリシア語の学習にも没頭したが、もっと重要な研究に役立てるために学んだのである。」15-16頁

 ガリレオ(1564-1642)の少年青年期は16世紀の後半、大航海時代の幕開けから既に半世紀以上が過ぎており、地中海貿易の重要性が相対的に低下して、イタリア都市国家の没落が始まっていた。フランスではユグノー戦争が猖獗を極め、エラスムス(1466-1536)の頃のような希望に満ちたルネサンスの栄光はもう遠い過去の話になっている。そんな中でも、というかそんな状況だからだろうか、フィレンツェでは「人文学」や「ギリシア語」を学ぶことがありふれた出来事だったことが確認できる。

「ガリレオはヴァンブローサの神父から論理学の基本的な規則、そして弁論術の用語、非常に多くの定義と差異、文章の多様さ、教義の序列と進展を学んだが、このすべてが彼には退屈で、役に立たないように思われ、彼のすばらしい知性にはほとんど満足を与えなかった。」16頁
「しかしガリレオは、何世紀ものあいだ、たったひとりの人物の意見と言葉に囚われて人間の心の暗闇のなかに埋もれたままになっている世界の秘密をあばくために自然によってえらばれたのであり、これらの教えを他の人たちがそうしてきたように盲目的に受け入れることができなかった。彼は自由な知性をもっていたから、議論と感覚的経験で同じことがかなえられるのに、古代や現代の著者の言葉と意見にそんなにたやすく同意しなければならないとは思われなかった。だから、自然についての議論では、彼はアリストテレスの述べたことをすべて熱烈に擁護する人びとにいつも反対し、このために反抗の精神をもっているという評判を得た。そして、真実を発見した見返りとして、彼らの憎悪をかき立てた。」18頁
「彼がその頃から学校に共通した強制的な哲学のやり方に自分の自由な個性を順応させることができなかったことがわかる。」185頁

 人文学的なカリキュラムが時代遅れになりつつあることが分かる。しかし思い返してみれば、ペトラルカ(1304-1374)の頃にはアリストテレスは東方ギリシア世界からもたらされた最新の学問であったはずだ。アリストテレスに心酔する若者たちに愚か者と見なされたペトラルカは、頑迷で結構などと韜晦している。本書は「何世紀ものあいだ」アリストテレスが君臨していたかのように記述しているが、具体的には中世後期(トマス・アクィナス)からルネサンスにかけての350年間程のことだ。ペトラルカもガリレオもアリストテレスに反抗したが、ルネサンス夜明け前のペトラルカは保守的な立場から、ルネサンス日没後のガリレオは革新的な立場からそうした。つまりアリストテレスそのものが、ルネサンス期を通じて、革新的であったものから保守的なものへと変化したわけだ。というかそもそも思い返してみれば、理念先行のプラトン主義に対してアリストテレスは感覚的経験を重要視する立場だったはずだ。そんなわけで、アリストテレスの考え方そのものに致命的な問題があったというより、ルネサンス期を通じた「人文学」の在り様のほうに何かしら根本的な問題があったと考えるべきところだ。そんなものをリベラルアーツの起源などとありがたがっている場合か。そして逆に、ガリレオがどうしてその枠から飛び出すことができたのか、単にガリレオ個人の資質に還元するのではなく、ルネサンス期を通じた社会変化を踏まえて探究する必要がある。個人的な直観では、人文学とは関係のない流れから出てきている。

「彼が言うには、そこに書かれている文字は数学的命題、図形、そして証明だった。それらを用いるだけで、自然そのものの無数の秘密のいくつかを洞察することができるのである。」60頁

 時代を遡ればピタゴラスをどう考えるかという厄介な話もあるが、それでもやはり新しい。経験を重視するベーコンやヴィーヴェスにも見られない。デカルトあるいはスピノザに引き継がれるこの新しい世界観は「人格の尊厳」という考え方とどう響き合うのか、あるいは響き合わないのか。今のところ響き合う予感はまったくしない。

「教師は弟子たちの眼が読書で、その心と頭脳があるときは議論に、あるときは文字に、続いて図形に、とぎれとぎれに集中することで疲れてしまうことがないように気を配るしかない。しかし、このような気配りから生徒が真の利益を得ることはほとんどない。幾何学的証明を理解し、我がものとする唯一の方法は、自分自身の学習であって、他人によるものではない。わたしが信じるに、これら二つの学び方には、個人的な興味と注意力をもって世界を自分自身で見、観察しに出かけるのと、単に地図上で、たとえそれが正確であってもとても誠実な著者によって報告されていても、そこに留まること以上に非常に大きな違いがある。」172-173頁

 「幾何学に王道なし」と言ったエウクレイデスを踏まえていると考えていいのだろう。この真理観・学習観は、スピノザに引き継がれていくような印象だ。しかし「暗記の反復」や「教え込み」ではなく「理解のための学習」が決定的に重要で、教師の気配りが何の役にも立たないという観点は、きっと教育の在り方にも大きな変化をもたらすのだろう。

ヴィンツェンツォ・ヴィヴィアーニ/田中一郎訳『ガリレオ・ガリレイの生涯 他二篇』岩波文庫、2023年