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【要約と感想】プラトン『パイドン』

【要約】魂は死にません。そう確信して、ソクラテスは喜んで死刑を受け入れたのでした。

【感想】理不尽な死刑判決を食らったソクラテスが、まったく苦しむことなく死に向かっていく姿。これが凄い。並大抵の覚悟ではこうはいかない。

その生き様を根底から支えていたのが「魂の不死」にたいする確信だ。本書では様々な角度から「魂の不死」が証明される。その証明の説得力に関して、私が言うべきことは何もない。

今回、個人的に注目したのは、「自己同一性」という言葉だ。本書では「自己同一を保つ」という表現が多用されている。単一の形相を持ち、分解されず、恒常的な同一のあり方を「保つ」ものは、神的であり不死であるとされる。そして自己同一を保ち続ける「それそのもの」であるようなものは「イデア」と呼ばれる。逆に、自己同一を「保てない」ようなものは、死ぬ運命から逃れられないものと見なされる。

このような「自己同一性」の持続を良しとする感性は、日本人には馴染みがない。むしろ、「花の色は移りにけりな」にしろ「祇園精舎の鐘の声」にしろ「月日は百代の過客」にしろ、「自己同一」を保たないことが美の本質にあるとされる。逆に言えば、「自己同一性」への執着を把握できれば、西洋哲学の核心部分を掴めるということになる。

※9/26追記
【この本は眼鏡っ娘のことを書いている】
プラトンはソクラテスに、「一に一を加えたときに、<二となった>のは、加えられたほうの一なのか、それとも、加わった方の一なのか。あるいは、この加わった一と加えられた一とが、一方の他方への附加ということに原因して、<二となった>のか。それすらそうとは自分に納得できないからだ。」と語らせている。これはもちろん眼鏡っ娘について書かれた文章だ。
「一に一を加えて二になる」とは、「娘」に「眼鏡」を加えて「眼鏡っ娘」となることだ。しかしソクラテスはそれに対して「自分には納得できない」と疑問を呈している。なぜなら、「眼鏡っ娘」とは「二」ではなく「一」だからだ。だからソクラテスは続けてこう言う。「そもそも<一>というのが生ずることの原因は何であるのか、それを知っていると、私はもはや自分を納得させえないでいる」。これは、「娘」と「眼鏡」が合体したときに生じるのは単に「眼鏡をかけた娘」だけのはずであって、「眼鏡っ娘」が生じるわけではない、ということへの疑問だ。だからソクラテスは総括してこう言う。「そのものが生じたり消滅したり、またいま存在するというのは、いったい何を原因・根拠としてあることなのか」。彼は喝破したのだ。「眼鏡っ娘」が存在するというのは、単に「娘」に「眼鏡」が加わったせいではないのだと。
だとしたら、「眼鏡っ娘」の存在は何に由来するのか。彼はこう言う。「一に一が加えられた場合には、その附加が、二の生じる原因だとか、また分断される場合には、その分断が、原因だと、言わないように用心するのではないだろうか」。もはや明らかに、「眼鏡っ娘」の存在は「娘に眼鏡が加えられる」ということには求められない。「何であれ、ものには、それがあずかりもつところの、おのおのに独自な<存在の本来的なあり方>(ウゥシアー)があるのだ。そこで、まさにこれを分有したという仕方においてのみ、おのおののものは、生じてくるのである。それ以外の仕方を自分は知らない」。「眼鏡っ娘」とは、「眼鏡っ娘」という独自な「存在の本来的なあり方」を持っているものなのだ。

プラトン/岩田靖夫訳『パイドン―魂の不死について』岩波文庫

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」

【要約と感想】プラトン『国家』

【要約】「正義」とは何であるかを考えた本です。
国家にとっての正義とは、上に立つべき人がちゃんと上に立ち、下にいるべき人がしっかり下で従っている状態を指します。上に立つべき優秀な人とは、哲学者のことです。同じく、正義の人とは、上に立つべき知的要素がしっかり上に立ち、下にいるべき欲望がきちんと下で従っている状態を指します。逆に、下にいるべき欲望たちが思考や行動を支配した状況を「悪」と呼びます。
哲学者になるためには、感覚で捉えられるようなものは捨てて、思考だけが把握できる対象=イデアを捉えなければなりません。そうしてイデアを把握する哲学者は、正義そのものであり、最高に幸せな人間となります。

【感想】政治学や教育学の、押しも押されぬ大古典。内容に対して私が言うべきことは、ほぼ何も残されていない。

とはいえ、いくつか気になることはある。たとえば、社会契約論について。プラトンは明確に社会契約説を否定している。しかも歴史的に否定したのではなく、倫理的に否定している。社会契約論が本当に仮想敵としなければいけないのは、王権神授説のような代物ではなく、プラトニズムではないのか。

これはもちろん民主主義にも当てはまる。プラトンは民主主義を明確に倫理的な意味で否定している。しかも民主主義の根幹である「多様性」そのものを倫理的に否定する。プラトンは、単一性や単純性や純粋性といった「自己同一性」を最大の根拠として、民主主義の多様性を倫理的に非難する。この単一性や単純性や純粋性といった観念は、現代では民族の単一性・単純性・純粋性という「ナショナリズム」の形で先鋭化している。民主主義が本当のラスボスとすべきは、目の前に見えるナショナリズムではなくて、背後に控えているプラトニズムであり、「自己同一性」という概念そのものではないのか。

個人的には、本書は、政治学や教育学の古典であるよりも前に、「自己同一性」という概念が持つ魅惑と恐ろしさを疑いのない水準で浮き彫りにしたところに意義があると思っている。

もちろん教育について無視するわけにもいかないので、それについてはこちらへ。→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」

【この理論は眼鏡論に使える】人間の魂を三要素に分割する考え方は、眼鏡っ娘が登場するマンガを分析する際に、大きな理論的武器となる。プラトンは、一人の人間を「知的/勇気/欲望」の3つの要素に分割した上で、知的な部分がほかの部分を従えることこそが「正義」であると主張した。そしてそれは国家においても同様であり、知的な人間がほかの人間を従えるのが「正義」ということになる。それは一つの物語においても当てはまる。一つの物語に登場するキャラクターそれぞれに魂の三要素「知的/勇気/欲望」を割り当てる。すると物語で展開されるキャラクター間の葛藤は、一人の人間のなかで繰り広げられる魂の葛藤と相似するものとなる。そして「知的」な人間が上に立つことが、プラトンによれば「正義」なのだ。知的な人間とは、もちろん眼鏡をかけた者のことである。

*9/22追記
「眼鏡っ娘」がただの「眼鏡をかけた女」とは異なるという事態を、本書は端的に示している。国家の指導者となるべき哲学者を教育するエピソードにおいて、プラトンは数学教育の重要性を説く。そこで彼は「一」を認識することが真理を見抜く知性の土台を作るとして、こう言う。
「もし<一>というものがまさにそれ自体として、じゅうぶんに見られ、あるいは何かほかの感覚によってとらえられるものであるとしたら、ちょうど指の場合について行っていたのと同じように、それは我々を実在するものへと引っぱっていく性格のものではないことになるだろう。けれども、もしそれが見られるときにはいつも、何か反対のものが同時に見られて、一つとして現れるのに少しも劣らず、またその反対としても現れるということになるのであれば、これはもう、その上に立って判定する者が必要となるだろう。」(524d-525a)
プラトンが言う「何か反対のもの」とは、「一」に対して「多」が現れることを意味する。人間は「人間という一」であると同時に、「二つの眼と二つの耳と二つの手と二つの足などなどの多の集合」でもある。我々はどうして人間を「一人の人間」として認識し、「二つの眼と二つの耳と…の集合」としては認識しないのだろうか。これが「一と多」に関わる認識論的問題である。プラトンは様々な物事を「多」ではなく「一」として認識することこそが真理を認識する知性の役割だと言う。知覚だけでは、見えるのは「二つの眼と二つの耳と…の集合」だけであって、ここから必然的に「一人の人間」という認識は生じない。知覚に加えて知性の働きがあってこそ、初めて「一人の人間」という認識が生じる。
これは明らかに、「眼鏡っ娘」を「眼鏡っ娘」として認識する事態を指し示している。もしも単に知覚だけなら、そこにいるのは「眼鏡+娘」という「多の集合」に過ぎず、「一人の眼鏡っ娘」を認識することはあり得ない。そこに「真理を見る知性」の働きが加わることによって初めて「一人の眼鏡っ娘」を認識することが可能となる。逆に言えば、「眼鏡と娘という多の集合」から「一人の眼鏡っ娘」を見抜くことこそが知性の働きであって、真理への道筋ということである。

またプラトンは「一」と「多」についてこうも言う。
「じっさい、君も知っているだろうが、この道に通じる玄人たちにしても、彼らは、<一>そのものを議論の上で分割しようと試みる人があっても、一笑に付して相手にしない。君が<一>を割って細分しようとすれば、彼らのほうはそのぶんだけ掛けて増やし、<一>が一でなくなって多くの部分として現れることのけっしてないように、あくまでも用心するのだ」(525d-e)
これは、愚かな非眼鏡勢力がしばしば「眼鏡を外した方が美しい」などという馬鹿げた戯言を発することに対する批判である。プラトンが言う「<一>そのものを議論の上で分割しようと試みる」とは、本来は「一人の眼鏡っ娘」であったものを言葉の上だけで「眼鏡と娘という多の集合に分割しようと試みる」ことを意味する。それは極めて愚かな行為であって、心ある眼鏡勢力はプラトンの言うとおり「一笑に付して相手にしない」ことが必要だ。眼鏡勢力が気をつけるべきは、「<一>が一でなくなって多くの部分として現れることのけっしてないように、あくまでも用心する」ということだ。もちろんこれは、「眼鏡っ娘」が眼鏡を外して「眼鏡と娘の多の集合」に成り下がらないように用心するということを意味する。なぜなら「眼鏡っ娘」という「一」にこそ真理が宿るのであって、「眼鏡と娘の多の集合」には知性のかけらも存在しないからである。そもそも「割って細分」とは眼鏡を否定する暗喩であり、「掛けて増やす」とは眼鏡を肯定する暗喩である。眼鏡を掛けて「眼鏡っ娘を増やす」ということこそ、真理へと到達する道筋なのだ。

プラトン/藤沢令夫訳『国家』〈上〉、岩波文庫
プラトン/藤沢令夫訳『国家』〈下〉、岩波文庫

【要約と感想】大澤真幸『自由という牢獄』

【要約】無際限に自由になったかと思われるときほど、実は自由ではない。なんでも選択できることによって、逆に自由を可能にする前提が崩壊しているからだ。自由を可能にするためには、「他でもありえた」という根源的な偶有性に開かれ、逆に「まさにこの私」という責任を引き受けなければならない。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=郵便的を経た後も、否定神学全開。

【感想】宮台真司は「偶発性」といい、大澤真幸は「偶有性」という。「偶然性」から自己のかけがえのなさを追究した九鬼周造からどれだけ隔てられているのか、というところは気になる。そんなに変わっていない気はする。

しかしこの偶有性という概念は、「排中律」を無効化して、超えていく理屈にはならないのかしらん。大澤は偶有性のことを「必然性と不可能性の双方の否定によって定義できる様相」と言っているけど、そうだとしたら、偶有性を認める世界では、大澤得意の否定神学的理論は使えないはずだ。あるいは、「否定の否定」が過剰さを産出してしまうという否定神学的な操作を成立させているのは、「否定」という操作をする際に、「必然性と不可能性」を都合良く認めたり認めなかったりしているからじゃないのか。「必然性と不可能性」の間を認めない「排中律」が成立しているのなら、「否定の否定」は、「ただの肯定」になるはずだ。「否定の否定」という操作が過剰さを産出するためには、「必然性と不可能性」の間に「排中律」が成立していてはいけない。だとすれば、「人格」や「自由」といった概念に過剰さをもたらしているのは、否定神学的操作そのものではなく、「排中律の破れ」ということになる。「否定の否定」によって過剰さがもたらされるのではなく、否定神学的操作を加えることによって、もともとあった「排中律の破れ」という事態があからさまに暴露されるということではないか。

【眼鏡論に使える】本書では「根源的偶有性」という概念を軸に、アリストテレスのいう「潜勢態」の議論に展開する。眼鏡的に言えば「眼鏡をかけている」と「眼鏡をかけていない」が偶有的であることを考えてみると、新城カズマが提唱した「未がねっ娘」という概念の重要性が際立つ。未がねっ娘とは、眼鏡っ娘という「現勢態=現実性」から純粋に独立した、「潜勢態(潜在的可能性)としての存在」である。それは「眼鏡をかけない」という可能性、つまり「眼鏡をしないでいる」という、己の内なる受動性のことである。アリストテレスの議論の含意は、「眼鏡っ娘への自由」は、それをなさない受動性を、つまり「未がねっ娘」を、超越論的な条件としている。こうした根源的偶有性を暴露する属性というのは、眼鏡くらいのものではないか。

大澤真幸『自由という牢獄――責任・公共性・資本主義』岩波書店、2015年

【要約と感想】大澤真幸『恋愛の不可能性について』

【要約】私とは、共約不可能な唯一的存在である。そして愛する相手も、共約不可能である。だから恋愛は、私の唯一性を否定する経験となる。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=「私」が記述の束に還元できない共約不可能な唯一的存在であることは、固有名詞が具体的記述の束に還元できないのと同じことである。それは「他者」にも言えることであって、だから私と他者はそもそも共約不可能な絶対的差異である。
そのような共約不可能な特異点を作り出す作業として否定神学的な操作(ヘーゲルの言う「否定の否定」など)が行われるわけだが、その形式が様々な領域(貨幣、表現、宗教、合理性など)で「余剰」を生み出す。個人的な関心に照らして、この操作こそが、自然科学や功利主義的構成では説明し尽くすことのできない「人格」や「自由意志」という概念にまとわりつく「余剰」を生み出す普遍的なやりかたなのだと把握した。

【感想】「否定の否定」という形式的操作でもって「無限」を理解可能にするという様式を身につけると、様々な領域に適用可能な分析の武器になることは分かるけれども。しかし直感的には、違和感がつきまとう。違和感を直感的に突き詰めていくと、「排中律」を無節操に運用しているところが怪しいような気がするわけで。「A」でなければ「非A」という「排中律」を前提として「否定の否定」が成り立つわけだけど、前提となっている「排中律」は、本当にあらゆる領域で無前提に使用してよいのだろうか? 本当は、実は「排中律」を成り立たせている「前提」のほうが真の問題を構成しているのではないか。たとえば「宇宙」は「閉じている」ことによって初めて「排中律」が成立するわけだが、仮に宇宙が破れていたりとか、膨張や収縮を繰り返していたりとか、時間軸が捻れていたりとかするとき、実は「特異点」は消失してしまうかもしれない。

【これは眼鏡論に使える】しかしこの否定神学的な思考様式は、眼鏡論を語るときに極めて有効な観点となる。「眼鏡をかけている(同一性)」ことと「眼鏡を外さない(否定の否定)」ことは、まったく違う出来事である。眼鏡っ娘が「過剰」なのだとすれば、その過剰さの産出過程に、きっと眼鏡の否定神学が関与している。

大澤真幸『恋愛の不可能性について』ちくま学芸文庫、2005年<1998年

【要約と感想】ジャック・アタリ『1492西欧文明の世界支配』

【要約】ヨーロッパとは、都合が悪い東洋的出自を忘却して1492年に捏造された、世界征服のための人工的概念です。

■確認したかったことで、期待通り本書に書いてあったこと=かつては中華帝国が世界の中心であって、ヨーロッパは貧弱で貧乏な辺境に過ぎなかった。1492年が逆転のタイミングとなった。

コロンブスの識字能力と、実際に読んだ本のタイトル(プトレマイオス「地理学」、マルコ・ポーロ「東方見聞録」など)。コロンブス以外の当時の人々も、すでに地球が丸いことを知っており、大西洋航路の可能性を理解していた。コロンブス以外の人々のほうがより正確に地球の大きさを把握しており、大西洋航路は現実的な問題として考慮された上で難しいと判断されていた。当時の航海による発見成果(たとえば喜望峰に至るまでのアフリカ大陸西海岸)の情報は、印刷術によって迅速かつ広範囲に周知されていた。

新大陸におけるスペイン人の蛮行、原住民の大量虐殺の具体的な過程。それに対するキリスト教聖職者たちの反応。

宗教改革における印刷術の重要性。ルター登場以前から印刷術の活用によって聖書が大量に出回っており、一般民衆が自ら聖書を読むという行為が可能になっていた。教会の権威が失われていく過程で、印刷術による大量の聖書の流布が大きな意味を持った。

■図らずも得た知識=1492年に世界初の地球儀を作成したマルティン・ベーハイムの具体的な履歴。ポルトガルによるアフリカ西海岸探検の具体的過程。1492年にスペインで実行されたユダヤ人追放の具体的過程と、その歴史的な影響。15世紀末の領邦君主たちの外交戦略の実相。

■要検討事項=ユダヤ人が迫害された結果、二枚舌的で曖昧な性格を帯びた「近代的知識人」が生まれたという見解。本当か? コロンブス=ユダヤ人説にも共感を示していたり、コロンブスの大西洋横断とスペインからのユダヤ人追放がリンクしていることを仄めかしたり、恣意性は感じる。
とはいえ、1492年のグラナダ陥落が、単にヨーロッパ圏からのイスラム追放だけを意味するのではなく、ヨーロッパの知識人にとってはユダヤ人問題も絡んできて、私が想像する以上に重要な事態として認識されていることは理解した。

【感想】「ヨーロッパの捏造」という観点は、様々な事象を考える上で、重要かつ有効。イスラムやユダヤ人を追放し、キリスト教が東方に由来するという事実を意図的に忘却することによって、純粋なヨーロッパという表象が可能となる。出自を意図的に隠蔽し、新世界で未来を簒奪することによって、自分自身の純潔な自画像を捏造する。今のアメリカもやっていることは同じ。あるいは中国も。日本も。つまりそれが「国家」というものが持つ現実の力であり、ナショナリズムのリアリティということ。

【眼鏡学のためのメモ】
「案外見逃されてきたことだが、もうひとつの大きな発明が読書と知識の進展をかなり促進する。<眼鏡>である。誰でもかなりの高齢まで書物を読める眼鏡のおかげで、知識のより大きな蓄積が可能になる。(…)他のいかなる行為よりも、これからは読書が時代の思想を激しく揺り動かすであろう。」(p.72)。

ジャック・アタリ/斎藤広信訳『1492 西欧文明の世界支配』ちくま学芸文庫、2009年<1992年