「百名城」タグアーカイブ

【宮城県仙台市】仙台城は仙台市博物館から歩いて登るのがお好み

 仙台城に再び訪問しました。
 やはり仙台城と言えば、伊達政宗の騎馬像がシンボルですね。かっこいい。

 が、残念ながら当時の建物はことごとく消失しております。曲輪や石垣の跡を見て、当時の様子を想像するしかありません。

 仙台城の鳥瞰図。

 縄張は極めて広大で、一般に観光客が仙台城と認識しているのは、かつての本丸の一部に過ぎません。実際は、その何倍もの規模を誇っておりました。

 個人的には、三之丸(現在は仙台市博物館がある)から本丸に登っていく坂道が、とても風情があって好きです。仙台市博物館に行く観光客が少ないのは、とても勿体ないと思っています。二の丸の方は東北大学のキャンパスとして整備されていて、当時を偲ぶためのヒントも少なくなっていますね。

 仙台城の案内パネル。

 建物等が「全滅に帰した」ことについて、「心無き俗吏」という言い回し等に無念さが滲み出ております。

 かつて本丸に建っていた建物も、いまは礎石跡だけが整備されているいる状態です。

 入場無料の学習施設では、大広間がCGで復原されていて、見応えがあります。

 本丸をパノラマで見るの図。

 極めて広大な曲輪です。当時の権勢が偲ばれます。

 そして仙台城と言えば、天守閣がない代わりに、見事な懸造が威容を誇っていたことが有名ですが。

 現在は、案内パネルが立っているだけです。懸造の復原は、さすがに大変なのかな。

 かつて懸造があったであろう本丸東側から、眼下に広がる仙台平野。

 広瀬川の作る蛇行と断崖絶壁が、雄大な景観を作っています。懸造から眺め下ろすのは、気分がいいんだろうなあ。

 仙台城本丸の北側には、立派な石垣が聳えています。仙台市博物館から坂道を歩いて登っていくと、死角から急にこの石垣が現われて、興奮します。

 かっこいいです。当時は土塀も張り巡らされていて、さぞかし立派な構えだったんだろうなあ。
 ただしこの石垣は第三期のもので、伊達政宗の時代に作った石垣は奥に埋もれています。

 観光客がまったくいなくなって閑散とする西側にも、石垣があります。

 虎口の形状がしっかり残っていて、見応えがあります。が、西ノ門付近は立ち入り禁止になっております。

 さて、2015年に訪問したときには仙台市博物館が改修中で見学できなかったのですが、2018年にはしっかり見学してきました。

 常設展示では、やはり伊達政宗関連の展示が充実しています。天正遣欧少年使節団の遺物なども、ここでしか見られないものです。
 他、寛文の伊達騒動の史料とか、幕末戊申戦争時の仙台藩の動向なども興味深く見ました。どれも充実しているのですが、近代以降の展示が手薄だったのには、少々食い足りない感じもします。

 博物館の裏には伊達政宗の胸像もあります。

 太平洋戦争のために金属を供出しなければならず、体の部分が失われてしまっています。仙台城本丸の騎馬像は、遠くて顔の表情などが分かりませんが、こちらは間近で見ることができますね。

 それからまた、博物館の裏には阿部次郎の石碑があります。

 山形県出身の阿部次郎は、東北帝国大学の教授となり、大正期に人格主義を唱道します。「人格」概念を研究する私としても無視できない重要人物です。
 碑の右手から延びる道は、逍遙のために設けられた「哲学の道」ということです。

 そんなわけで、本丸跡に建つ青葉城本丸会館の料理屋で名物のハラコ飯を美味しくいただき、仙台城を後にするのでありました。
(2015年9月、2018年8月訪問)

【山形県山形市】山形城と博物館3つに幕末維新の困難を見る

 山形城は戦国時代に最上義光が整備した城で、日本百名城の一つにも数えられています。めちゃめちゃ広大な敷地面積の平城です。

 山形城というと、まず有名なのは最上義光の騎馬像です。騎馬像は数多くあれども、躍動感に溢れているという点では一番だと思います。格好いい。
 銅像の説明で「鎧兜は時代考証にとらわれず表現した」と言い切っているところも、すごいのであります。

 ちなみに城の東側にある最上義光歴史館前の広場にも銅像がありますが。

 こちらは文化人としての側面を強調した出で立ちになっております。騎馬像との落差が激しいですね。

 最上義光歴史館は、入場無料です。

 義光の生涯と最上家の歴史の他、山形城の特徴についても知ることができる、充実した博物館です。最上家が鎌倉時代から続く名門であることがよく分かります。

 が、この最上家、せっかく義光の時代に超巨大勢力まで成長したにも関わらず、跡継ぎ争いのせいで1622年に改易されてしまいます。
 最上家改易後の山形には代わる代わる大名が配置されることになりますが、57万石を誇った最上氏ほどの実力を持った大名はおらず、超広大な面積の山形城を維持管理することができなくなっていきます。

 明治維新時の様子の一端を、城の南東にある豊烈神社に伺うことができます。

 豊烈神社は幕末時に山形藩の藩主であった水野氏と明治維新時の殉難者を祀っている神社です。鳥居脇に水野三郎右衛門元宣の銅像があるのですが、この説明パネルがなかなかふるっています。

 戊辰戦争の際、山形藩が薩長側について、庄内藩と衝突し、ボロ負けしたことが記されています。
 それにも関わらず「改革後山形市が米沢・新庄の大藩をさしおいて県庁所在地となり」と誇らしげに書いてあることに、「庄内」について触れていないことなども含めて、違和感を抱かざるを得ないわけです。
 山形県の県庁所在地が鶴岡でも米沢でもなく山形である理由は、明治維新の性質を考える上で一つの材料になります。

 さて、最上義光歴史館のほう(東)から城に向かうと、JR東北本線とお堀を越える橋の向こうに、東大手門が復元されています。かっこいい。

 この東大手門の櫓には、入ることができます。

 さらに長屋門の中を通って、歩いて反対側に出ることができます。大興奮。

 二の丸をしばらく行くと、本丸に入る橋と門が見えてきます。こちらも復元されています。

 お堀も石垣も、たいへん立派です。
 ただし本丸は荒れたままになっています。現在本丸御殿の調査が行われていて、掘立柱建物や礎石の跡が確認されているようですが、明治以降の削平によって多くの痕跡が失われているようです。今後の発掘調査の成果に期待したいです。

 二の丸の南東側には、県立博物館があります。

 この博物館の目玉は、なんといっても国宝に指定された縄文時代の土偶「縄文の女神」です。先日、実物を東京国立博物館の縄文展で見てきたところでした。(特別展「縄文―1万年の美の鼓動」に行ってきました)。
 一緒に出土した土偶破片の展示なども充実しておりました。

 山形県が縄文の女神に誇りを持っているだろうことは、JR山形駅西口広場にあるベンチの造形からも分かりますね。

 訪問したときには幕末以降の歴史展示が準備中で見られなかったのが残念でした。特別展では明治150周年記念展示を行っていたようですが、その案内によると「新庄藩戸沢家・庄内藩酒井家等の一藩一家による長期的な単独支配地域と、村山地方のように幕府領・旗本領などの交錯した地域とが混在した状態から、戊辰戦争、奥羽越列藩同盟の成立と瓦解等動乱の時代を経て、「統一山形」に至るまでの複雑な過程を紹介」となっていて、幕末維新期は本当に大変だったことが分かります。個人的には三島通庸についての見識を深めたいところでした。
 また米沢と庄内の知見を深めながら、個別に勉強しよう。

 さて、さらに二の丸を南に進むと、山形市郷土館があります。こちらの建物が素晴らしい。

 明治初期に建造された擬洋風建築で、病院として利用されていた者のようです。展示は、主に近代医療関係のものが充実しています。

 そして、この中庭がとても良かったのです。

 禅様式の枯山水的な中庭と擬洋風建築のミスマッチが、なんとも言えない絶妙な味わいを醸し出しています。こういう場所は、他になかなかないように思います。

 二階に上がる階段も、他に見たことがないとても不思議な構造をしていて、興奮しました。残念ながら三階と四階に上がる螺旋階段は封鎖されていましたけれども、下から見上げるだけでもなかなかの風情でした。いい建物です。

 そんなわけで、山形名物「冷やしラーメン」に舌鼓を打ち、山形市を後にするのでした。
(2018年8月訪問)

【長野県上田市】上田城は尼ヶ淵に降りて見上げないと来た意味がないんじゃないかな

長野県上田市の上田城に行ってきました。
上田城は真田氏ゆかりの城として有名ですね。近年では2016年の大河ドラマ『真田丸』が記憶に新しいです。

上田駅では、改札口から真田家のシンボル六文銭を大プッシュしております。

JRの駅にも大きな六文銭のデザインがあしらわれています。他にも、街中には至る所に六文銭を見ることができます。愛されていますねえ。手前の銅像は、上田駅に突進する馬上の真田幸村。かっこいいです。

二の丸と本丸を隔てる巨大な堀を超えると、立派な櫓門が待ち構えています。この光景には胸が高まります。格好いいですねー。

しかしまあ、案内板によれば、櫓は戦国の真田時代に建てられたものではなく、江戸時代に入ってから仙石氏によって築かれたものということです。真田氏が造った上田城は、煮え湯を二度も飲まされた家康によって徹底的に破壊されてしまったので、当時の遺構が残っていないのは仕方ないところですね。

櫓の中は史料展示スペースになっていて、特に真田三代の事績や、上田合戦の具体的な展開について知ることができます。なかなかお金がかかっていて、充実しています。

これも残念ながら真田時代のものではありませんが、尼ヶ淵から見上げる石垣も極めて立派で、見応えがあります。写真は、下から見上げる西櫓。本丸ばかり見て尼ヶ淵に降りてこない観光客も散見されますが、たいへん勿体ないですね。ここから見上げないと、上田城の神髄は分からないんじゃないかと思います。

江戸時代は、この石垣の直下まで千曲川分流の河原になっていました。こちら側から城を攻めることはほぼ不可能で、堅固な城であったことが推測できます。真田氏の居城時にはどのような土の姿だったのか、興味をかき立てられます。

かつての河原から西櫓を見上げます。格好いいですね~。

案内板によると、一部に古い時代の石垣も確認できるとのことですね。

写真は、東側から石垣を臨むの図。手前に見えるのが南櫓で、奥に見えるのが西櫓です。とことん格好いいなあ。

上田城がかっこよく見えるのは、姿形だけのせいではなく、それが辿った歴史に負うところが大きいかもしれません。二度も徳川軍を撃退するという実戦を経験していることが、極めて強く印象に残るわけです。我が鵜殿家も徳川氏との遺恨があったりなかったりするので、徳川氏に煮え湯を飲ませた上田城にはたいへん親近感を覚えるわけですね(?)。

さて、上田を訪れた2018年3/26は、東京では桜が満開になっていたようでしたが、こちらでは梅が盛りでした。紅梅が鮮やかです。

東側の土塁の上では、白梅が見事に咲いておりました。

二の丸の東側にある上田市立博物館も見学してきました。博物館本館の方では江戸時代の仙石氏や松平氏の治績が展示されており、別館の方で真田氏に関する展示が行われています。本館だけだと、実は真田氏関連資料をまったく見られないので、要注意ですね。
本館の展示では、幕末の兵学者、赤松小三郎の事跡を興味深く見ました。佐久間象山との交流もあり、幕末に大きな役割を果たした学者です。一般的には幕末の学者が注目されることはあまりありませんが、個人的には藤田東湖とか横井小楠とか学者たちの動向にとても興味があります。が、この赤松小三郎、志半ばで薩摩藩の中村半次郎(後の桐野利明)に暗殺されてしまいます。2018年の大河ドラマでは暗殺実行者の中村半次郎がなかなか重要な人物として描かれそうな感じがしますが、赤松小三郎暗殺エピソード等はどう扱われるんですかね。
いっぽう別館の展示のほうは、真田一色でした。上田城合戦や犬伏の別れなど、詳しく紹介されています。上田城もCGで復元されて、当時の姿を確認することができます。
(2018年3/24訪問)

【新潟県上越市】春日山城と上杉謙信墓所

新潟県の春日山城は、上杉謙信の本拠地として有名な城です。

麓から春日山城を見上げるの図。城に慣れていないとただの山にしか見えないかもしれませんが、目を凝らすと、人の手が入った曲輪の痕跡を確認することができます。戦国時代には築地塀や居館などで壮観だったんでしょうね。

案内板によると、裾野に張り巡らされた総構えも見所だそうですが、今回は山に連なる曲輪を中心に見学しました。

文部省が設置した案内板もありました。普通は地元の教育委員会が設置する案内板だけなのですが、さすが昭和10年に国指定史跡になっているだけのことはあります。

三の丸と二の丸を抜けて本丸に登り、北に視線を向けると、直江津の港や市街だけでなく、日本海まで見晴らすことができます。城として絶好の立地条件であることが分かります。
とはいえ、山城としてはさほど急峻な印象はありません。小谷城とか観音寺城などの山城っぷりと比較したときには、少し緩い感じがします。

本丸の跡。けっこう広くはありますが、べらぼうに広いというわけでもなく。北条や武田の城と比較すると、堀や土塁の造り込みもさほど凄いという感じもなく。千貫門周辺は確かに凄かったけれども、あの程度なら北条の城では標準装備という感じもするし。大手道と言われているルートも、技巧が少なすぎるし(あの緩さで本当に大手なのか疑問なしとしない)。あの上杉謙信の本拠地の本丸としては、畏れ多いですが、多少拍子抜けという感じは否めませんでした。
まあ考えてみれば、そもそも上杉謙信が城に籠もって戦ったこと自体が記憶にありません。ほぼ野戦に打って出ているわけで、城郭を固める方向に力がこもっていない気はします。
麓に張り巡らされた総構えを見ないうちに判断してはいけないわけですが、春日山城は単なる防御施設ではなく平時から家臣居館群として機能していた(観音寺城などと同じく)と考えて、堀や土塁などテクニカルな防御機構を期待する対象とはならないかなと。
というわけで、上杉謙信と一緒の場所に立つこと自体に万感の思いを抱きつつ、腕を組んで日本海を眺めるのが、楽しみ方として正しい気がしてきました。

さて、春日山の隣の峰に、上杉謙信の菩提寺・林泉寺があります。たいへん立派な三門です。

林泉寺は春日山城とセットで拝観するのがお勧めです。

林泉寺宝物館には謙信直筆の書などが展示されていて、たいへん見応えがあります。
禅様式で美しく整理された庭を奥へ進むと、川中島合戦戦没者慰霊碑などと共に謙信の墓所があります。

上杉謙信のお墓。感慨深いものがあります。

境内には上杉謙信の事跡紹介と共に、上杉謙信の歌の歌詞が展示されておりました。愛されております。

林泉寺から500mほど東、春日山の麓に春日神社があります。

春日神社の案内板によれば、そもそも「春日山」の名前は奈良の春日大社に由来するようですね。
春日神社の北東に春日山城史跡広場と学習施設があって、このあたりで総構えの雰囲気を味わうことができます。学習施設は、休館日の時に行ってしまったので、また改めて行かなくてはいけません。

ところで、ちょっと紛らわしいのですが、「春日神社」とは別に「春日山神社」という神社があります。春日山神社のほうが春日山城本丸に近いところにあります。

春日山神社の由緒書を見ると、明治34年に小川未明の父が作ったということで、けっこう新しい神社のようですね。

麓を歩いていると、工事現場等で使う持ち運び用ガードレールの土台が上杉謙信になっているのを見つけました。同じようなのは大阪四天王寺付近で聖徳太子が土台になっているのを見たことがありますが。地域おこしグッズとして定番なんですかね。
(2016年5月訪問)

【新潟県新発田市】新発田城と福勝寺

新発田城は日本百名城にも選ばれている立派な城です。

三階隅櫓が立派です。2004年に復元されたものですが、史実に忠実に再現されているとのことです。

桜の季節は、堀の向こうの隅櫓とコラボして映えそうですね。

が、残念ながら綺麗なのは目に見える部分だけで、城の大部分は消失していおり、舞台の書き割りのようになっているのでした。

案内板に記された縄張図を見ると、もともとは極めて広大な城であったことが分かります。現在残っているのは、ほんのごく一部分に過ぎません。

残された貴重な場所に向かいます。写真を撮っているのは「帯曲輪」というところで、本丸の表門を出たところに造られた、本来は出陣体制を整えるための集合場所みたいなところです。

案内板を見ると、帯曲輪の構造はかなり複雑で、そうとう防御機能が高かったように見えます。

さて、帯曲輪を抜け、いよいよ表門から本丸に入ります。が、まあ、本丸の大部分は消失していて、中はそんなに広くないんですが。
新発田城が素晴らしい名城であること自体に異論はないけれども、百名城にリストアップされるとしたら、むしろ石垣が良好に保存されている村上城も良かったんじゃないかなあというのが個人的な感想ではあります。

本丸には新発田藩初代藩主・溝口秀勝の銅像が建っています。武士なのに甲冑ではなく公家スタイルの銅像というのは他にもいろいろ見ることができますが、多少違和感を持ってしまいますね。どうして公家スタイルなんだろう。

さて、新発田藩の初代藩主・溝口秀勝は関ヶ原の合戦で東軍についたおかげで新発田藩領を安堵されることになりました。が、本丸の案内板では、戦国時代には新発田重家の居城であったとされています。
新発田城から南に1kmほど行ったところに、新発田重家の菩提寺・福勝寺があります。

福勝寺の新発田重家公廟。

寺の案内板にも説明されていますが、重家は織田信長と結んで上杉景勝に謀反を起こし、会津の蘆名家や米沢の伊達家の後ろ盾もあって6年ほどは持ちこたえたものの、新発田城落城と共に命を落とします。

福勝寺門前に据えられた新発田重家の銅像。
新発田城復元の会のWEBサイトが、新発田重家や溝口秀勝の事跡を詳しく紹介しています。
(2014年6月訪問)