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【要約と感想】長尾真『「わかる」とは何か』

【要約】「理解する」ことと「分かる」ことは、本質的に異なるものです。物事を「理解する」ためには、科学的な認識の手続きをしっかり踏んでいくことが大切です。が、その認識の手続きには様々な落とし穴があることが分かっています。物事を「わかる」ためには、身体感覚や生活の背景となる伝統的文化を大切にしていく必要があります。

【感想】卒業論文を書く前に、学生に読んでもらいたい類の本。科学的認識(人文社会科学を含む)の初歩が丁寧に説明されている。さらに丁寧に、人にわかりやすく説明するためのコミュニケーションのコツも解説されている。レポートや論文を書く上でのハウツー本として役に立つ、大学一年生に勧めるにはなかなか良い本と言える。

ただ、本書は単に学生向けのハウツー本に終わるものではない。科学技術の持つ意味が大きく変革しつつある時代という認識の下、科学技術の「適用範囲」を見定めるという課題に取り組んだ本でもある。19世紀的な素朴な科学技術観のままでは、人類の未来は危うい。科学技術の大規模化と専門タコツボ化という特徴を見定めた上で、素朴な19世紀的「理解」を超えて、身体感覚で「分かる」ための説明に転換していくべきことを説く。

本書は、繰り返し「原子力発電所」について言及する。原子力のように大規模かつ複雑に産業化した分野では、専門による専門的な「理解」ではなく、住民が肌感覚で「わかる」ような説明が必要になると言う。その願いが2011年までに(あるいは現在も)実現しなかったのは、とても残念なことだ。今も原子力に関わるテーマでは、一部の専門家気取りが「わかる」ことを置き去りにしたまま、単に専門的な「理解」を押しつけようとする傾向があるが、まったく時代遅れの19世紀的な態度としか言いようがない。

16年前の本であり、個々の事例については時代遅れになっている(たとえばDNAなど生化学や人工知能に関する分野に顕著)が、科学的な認識というものの本質については学べることが多い本だと思う。特に大学一年生にはいいのではないか。

個人的には、「原理」と「法則」の違いについての話が霊感を与えてくれた。「原理」と「法則」を厳密に説明し分ける視点から、文部科学省の言う「資質・能力」という言葉の気持ち悪さや胡散臭さが浮き彫りになる。
本書によれば、「「原理」とは、学問の体系を記述するときに、最初におかれるもので、経験的には正しいと思われるが、それが正しいと厳密には証明のできない仮定」(97頁)だそうだ。なるほど、「教育の原理」には「人格」というものを措くわけだが、それが正しいと厳密に証明することは不可能なのであった。「それが正しいと厳密に証明することは不可能」なことを、個人的には「特異点」と呼んできたわけだが。「教育原理」は、「人格」が「特異点」であることを踏まえて、あるいは「人格」でなくとも何らかの「特異点」というものが絶対に必要だということを自覚して、構成されなければならない。なにもかもが透明に説明可能だという態度は、「教育法則」にはなっても「教育原理」にはならない。昨今の学習指導要領とそれにまつわる理屈を見て鼻につくのは、まるで「特異点」なしでも教育が成り立つかのような、「教育法則」の定立でも目指しているような姿勢だ。典型的には、「人格」という概念すら「資質・能力」の範囲内で説明してしまおうという姿勢に顕れる。その姿勢には、教育には「厳密には証明のできない仮定」がどうしても必要になるという切実な理解も誠実な謙虚さも感じられない。「資質・能力」は、産業に貢献する人材育成という価値観・世界観を「それが正しいと厳密には証明のできない仮定」あるいは「特異点」として不問に付していることを、はっきりと自覚したほうがいい。

でもまあ、本書のオチで、西洋とは違う東洋の持ち味を尊重しようという話が出てきた所は、「おまえもか」という感じではあった。いわゆる「近代の超克」思想は、いつまでも日本人を捉えて放さないなあ。

長尾真『「わかる」とは何か』岩波新書、2001年

【要約と感想】岩田靖夫『増補ソクラテス』

【要約】「反駁的対話」やソクラテスにおける「無知」の論理構造を中心に、ソクラテスの思想を分析。

【感想】「無知の知」に関する本文の記述が、「これで本当に大丈夫なのか?」と不安にさせるものだったが、増補版の追加で大幅修正されていた。私と同じように不安に思った人が多かったらしく、シンポジウムでさんざん突っ込みが入ったようだ。

私が思うに、「対話術」に関する極めて重要な事実は、筆者も述べるように、プラトンがこの原理について本質的なことを「一言の説明もしていない」(296頁)ことだ。『国家』で触れられた太陽の比喩とか線分の比喩でディアレクティケーの方法が述べられているとする解説書もあるが、あそこには本質的なことは書いてないと思う。つまり、いかにして本物の真実へたどり着くかという保証は、あの説明では得られない。この「書かれていない」ということ、「否定」という事実そのものが極めて重要なのだと思う。ここに「無知の知」の深淵が現れている。

対話術がどのように真理に到達するかについて、プラトンは何も述べない。第七書簡によれば、そもそもそれは語れないし伝えられないものだ。このような真理にロゴスによっては到達することは不可能で、神話によってある程度仄めかすことは可能としても、どこかで深淵を跳躍する必要がある。

これはおそらく、世界を論理的に語るときに、どうしても深淵への跳躍を要請してくる「特異点」が必要となることを示している。「特異点」の抹消が原理的に不可能なことを自覚することが、いわゆる「無知の知」と言える。その「特異点」をどこに設定するかで世界の記述の仕方が変わる。「人格」を特異点にするか=カント、「個物」を特異点にするか=唯物論、「世界の見え方」を特異点にするか=フッサール、「世界そのものの外側」を特異点にするか=ヴィトゲンシュタイン、「言語」を特異点とするか=論理実証主義。むしろ何でも特異点になり得る。絶対無だろうが、メガネだろうが。しかし特異点を抹消することは、最後まで不可能なのだ。それがおそらく神を生む。

とはいえ、どの特異点も平等というものではない。出来の良い特異点は、射程範囲が広い(そしてその分、裂け目も深い)。「善のイデア」は、そうとう出来が良い。メガネも負けていられない。

岩田靖夫『増補 ソクラテス』ちくま学芸文庫、2014年<1995年

→参考:研究ノート「ソクラテスの教育―魂の世話―」