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【要約と感想】林竹二著作集8『運命としての学校』

【要約】学校や教育をダメにしているのは、教育を産業の下請けに売り渡す官僚主義的な教育行政です。文部省や教育委員会が管理主義を強めれば強めるほど、教育は死んでいきます。産業主義が公害を隠蔽して多数の人々を死に追いやったのと同様、教育の世界でも多くの子供たちを殺しています。いまの日本に教育はありません。あるのは管理と統制という警察的な発想です。

【感想】教育に内在的な独自の価値や働きがあるということは、実は現在でも一般的に認められていなくて。一般的には、教育は「何かのため」に行うべきと考えられていて、「それそのもののため」に行うべきものとは認識されていない。具体的には、産業のためとか、国家のためとか。すると、学校で教師が「教えるべきもの」は、教育内在的に生じてくるものではなく、政治や経済や産業の原理から外在的に押しつけられるものになる。その外側からの力が「教育に内在的なあり方」を歪めていく。その外在的な力に対する林の告発は、鋭く、激越だ。

そこで、じゃあ「教育に内在的なあり方」とは何だ?というのが、教育学にとって最大の問題となる。林が、教育学者から何も学ばなかったと明言している事実は、とても重い。林自身は、ソクラテス的な問答法に考察の糸口を見出していくことになる。その実例として、いわゆる教育困難校で起きた事実の記録は、とても刺激的だ。

私も、これから自分の方向性に迷ったときは、この本を読み返すといいかもしれない。

林竹二著作集8『運命としての学校』筑摩書房、1983年

【要約と感想】林竹二著作集7『授業の成立』

【要約】ソクラテスの問答法をベースにして、実際に小中学校で授業をやってみたところ、子供たちは活き活きとした表情で授業に参加しました。子供たちが授業に集中していたことは、感想からも伺うことができます。
一方、学校の先生たちがやっている授業は、子供たちを殺すような授業です。彼らは本物の授業というものをまったく理解していません。子供の発言が多ければ多いほどいい授業になると、根本的に勘違いしています。それは迷信です。子供の発言が少なくとも、子供たちが授業に入り込んで自分の問題として捉えることができれば、それはいい授業になります。
成績のいい子供を中心とした授業は、本当に勉強したいと思っている子供たちを振り落とし、子供たちを殺していきます。一人一人の子供をかけがえのない存在として認めるところから始めなければなりません。

【感想】授業中の子供たちの写真が、なによりも雄弁。批判者が言葉でなんと言おうと、子供たちの表情が説得力の源となっている。林竹二の授業は、きっと教室の中に浄化の空気を作っている。
ひるがえって、現場の教師たちに対する林の言葉は極めて厳しい。子供たちを殺しているのは教師であり、教師は加害者であると、糾弾して止まない。確かにそういう林の言葉に一理はあるが、反面、一理でしかないとも思う。きっと教師には教師の言い分がある。しかしその言い分は「子供のため」という言葉の前では、掻き消されざるをえない。
林の投げかけた問題は、現代でも間違いなく有効だ。ますます重要になっているとも言える。真剣に「教材研究」を行えば、確かに授業は良くなるだろう。アクティブ・ラーニングの掛け声が盛んな昨今、子供の発言が多い授業が必ずしも良い授業とは限らないという洞察も、個人的にはとてもありがたい。しかし、一人の教師にできることには、限界があるのも、また確かだと思う。

林竹二著作集7『授業の成立』筑摩書房、1983年

【要約と感想】林竹二『授業-人間について』

【要約】人間とは何か?をテーマにした授業を小学生にやってみたら、素晴らしい効果が上がりました。教育とは知識を教えこむものではなく、子供たち一人一人の可能性を引き出すものであることが、実践を通して改めて明らかになりました。

【感想】ソクラテスの対話法を実際に授業に適用したらどうなるか、という実践的興味を実行に移してみた、実践記録。本書には、実践記録:子どもたちの感想:理論的背景が配されており、実践の意味が重層的に理解できる。少々、自画自賛我田引水の印象もなくはないけれども、理論と実践が一体となった意欲的な試みが実際に遂行されたことの意義はとても大きい。いま文部科学省は「考え、議論する道徳」とか言っているけれども、すでに40年以上前にこういった実践があったことは思い返されてよい。逆に、先人が積み重ねてきた知見を無視しながら「考え、議論する道徳」とか言ってみても、うまくいくわけがないだろう。

林竹二『授業-人間について』国土社、1973年

【要約と感想】林竹二『教育の根底にあるもの―決定版』

【要約】日本には教育がありません。学校が子供たちを死に追いやっていることを、教師は自覚すべきです。教師が権力性を放棄しないと何も変わりません。教育とは何かを教え込むことではなく、子供の中に眠っている宝物を呼び覚ますものであり、授業とは自分が成長する実感と喜びを伴ったものでなければなりません。(1983年の講演記録)

【感想】子供たちの写真が衝撃的。授業を受ける過程で、みるみる表情が変わっていく。外在的な知識を与えられているのでは、こうはならない。私の授業では、最初から多くの学生が机に突っ伏して表情すら見えないが。そもそも授業とは、子供の中にある可能性を呼び覚ますものでなければならない。借り物の言葉を溜め込むのではなく、心から本当に分かったと思えるのが、真の授業だ。そうするためには教師は自らの権力性を意識し、廃棄しなければならないと言う。それが難しい。「教えなければいけないこと」は、教師たちの思いとは関係なく、上から降ってくる。教職課程でも「コア・カリキュラム」なんてものが上から降ってきた。そんなことで本物の教育になるのかという反省もなしに。

あと、特殊学校の教育に関する対談の中で、障害児の人間的発達に対する感動的な実践とともに、それに携わった先生に対するカウンセリング的対話が衝撃的だった。なかなか恐ろしい本だ。

林竹二『教育の根底にあるもの―決定版』径書房、1991年

【要約と感想】村井実『新・教育学の展望』

【要約】教育学は自律した学問として成立していません。それは教育の本質を学問の土台に据えてこなかったからです。教育の本質とは「よく生きよう」とする人間の姿勢にあります。しかし残念ながらこれを誤解してしまう傾向が人間にはあり、まずその克服をしなければなりません。「よさ」が外部に存在していると思い込む実在的偏向、「よさ」が倫理的なものに限られると思い込む倫理的偏向、「よさ」を快楽と同一視する快楽的偏向です。

【感想】教育学が自律した学問として成立しておらず、隣接諸科学からもさほど敬意を払われていないことは、まあ、肩身の狭い経験をした人なら実感するところではある。それを乗り越えるために、教育学の目的と対象を明確にしようとしたりとか、様々な取り組みはしてきたわけだけど、まあ、そうこうしているうちに人文諸科学全体が同じような肩身の狭い思いをするようになってきている気もする。

そんな中、村井実の我が道を行く独自の教育学体系が存在しているという事実自体に、心強いものを感じる。教育学の自律をこれほど強く求めている人は、国内外含めてなかなかいない気がする。プラトン思想を偏向していると一刀両断できる力強さは、他の人の言葉には求め得ないんじゃないかな。教育学は「雑学」であると居直るのもアリだとは思うけど、愚直に学問としての自律を追究し続ける著者の姿勢には、素直に敬意を感じざるをえない。

村井実『新・教育学の展望』東洋館出版社、2010年